四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

57番八幡(栄福寺)から58番佐礼山へ

57番八幡(栄福寺から58番佐礼山(仙遊寺)間の道標・丁石

四国遍路道指南

 是より佐礼迄廿町、山道、小さか 

四国遍禮名所図会

 是より壱町程下り別當栄福寺 大師堂 是より佐礼迄十八丁なり山道 

 八幡村是より六丁行溜池有り 六丁行寺有り 是より六丁上り
五拾八番佐礼山千光院仙遊寺 越智郡八幡村山上へ十弍丁上ル 国分寺迄一里

現在の遍路道を歩くと2.4km程の道法です

---------------------------------------

栄福寺入口の徳右衛門標石 「佐礼山迄20丁」

本堂前にある仙遊寺への丁石 「佐礼山18丁」

仙遊寺まで距離を示す願主が覚心さんの丁石がこの先多く残る(享保15年)

1?丁(16丁か?)

15丁石

14丁石

12丁石

犬塚池の下の道標(明治3年)

13丁石(12丁と順番が逆)

この先、犬塚池の縁を歩く

11丁石

10丁石

9丁石

車道へ出て8町(表記が町)

7丁石

この先の旧道は判らなくなっている

6丁は不明で5丁は移動している

車道を進み

静道の歌碑道標(嘉永4年)

逆遍路の道標

もう少し麓に在ったものだろう

1丁石(移動している)

5丁石(移動している)

3丁石 

国分寺へ向かう道筋にある

国分寺への分岐にある静道の道標 「本堂へ3丁」

この先、山門から急な道を登って行く

真念道標

以前は国分寺へ向かう分岐の(58-22)道標脇に立っていた

現在は本堂脇に置かれている

2丁石

寺への登り道の途中

四国遍禮名所図会より

MAP58-01(カシミール3Dにて作成)

MAP58-02

(=^・^=)END





 

56番泰山寺より57番八幡(栄福寺)へ

56番泰山寺から57番八幡(栄福寺)間の道標・丁石

四国遍路道指南

 是よりやわた宮まで十八町。行て総蛇川(蒼社川)と云川有

 〇よむら(四村)、次左衛門やどかす。〇いかなし村(五十嵐) 

四国遍禮名所図会

 是より八幡まで十有八町〇総蛇川 常に河原をとふる 大水の節ハ渡船す

 よ村〇いかなし村 石鳥居有り 是より弐町坂也
   五拾有七番八幡社別當栄福寺 越智郡いかなし村 山上へ三丁上る 佐礼迄廿丁

---------------------------------------

現在56番泰山寺から57番栄福寺迄は表口より登り八幡宮経由で3km程の距離

 

泰山寺境内の徳右衛門標石 かなり手が加えらている

現在は寺の駐車場の片隅に置かれているようだ


これより左へ曲がり南東に進む(天保15年)

450m程進んだ十字路に在る静道道標(弘化4年)

小祠内の手差しの道標はこの先、蒼社川手前にある無縁墓地に移されている

無縁墓地の道標

文字が在るようだが読み取れず

蒼社川の土手には2基の道標

一つは静道の道標(嘉永3)

附近より川を渡っていた

川を渡った先にある道標

以前は川の堰堤を歩いて渡ることが出来たのだが

四村には上部欠損の道標

八幡宮のある山の麓に突き当たった所の道標

左へ向かう

八幡宮への登り口に在る石標

昔は是より登り八幡宮へ登りそして下って栄福寺

登り口左の植え込みの中に2基の道標

57番へ向かう別ルートにある道標

3基あり一つは中務茂兵衛道標(明治21年

道道標 上部欠損しているが58番仙遊寺(されい山)を示している

山沿いの道を400m少し進んだ所に在る道標(明治30年

八幡宮の西側の登り口に在る中務茂兵衛道標(明治32年

八幡宮登り口の道標 「八幡宮へ3丁」

緩い坂道を登って行くと左側の小道に自然石の道標

100m程登った先、栄福寺入口に置かれている道標(明治35年

前には徳右衛門標石

本堂前の舟型道標「八幡宮へ2丁」

願主の覚心の舟形丁石が58番仙遊寺へ向かう道筋に多く見られます

57番八幡宮 別当栄福寺(四国遍禮名所図会より)

八幡宮

57番栄福寺

MAP57-01(カシミール3Dにて作成)

MAP57-02

(=^・^=)END















55番別宮から56番泰山寺へ

55番別宮から56番泰山寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 是より泰山寺まで一里二丁程 

 左は今治城下、諸事調物自由。〇日吉村〇馬越村、大師堂有〇小泉村

四国遍禮名所図会

 今治城下へよる時ハ弐里余廻り也 方丈の前より行

 日吉村 馬越村 小泉村 往還右へ入標石有
五十六番金輪山泰山寺 越智郡泉村 八幡迄十八丁

---------------------------------------

南光坊には2基の道標が移設されている(弘化3年)

泰山寺へ18丁と示しているので日吉町付近に在ったものだろう

静道の歌碑道標

南光坊を出てすぐの所に在る道標(大正13年

次に静道の道標が個人宅内に保管されているようだが未確認

小川為一氏が願主の道標が続く

国道196号線を横切って150m程の所には2基の道標

道向いの手差し道標

泰山寺入口の道標

各所に多くの石造物を残している伊藤萬蔵さんによる道標(明治32年

本堂脇の奥には奥の院への道標

元は寺の入口石段前にあった

奥の院への道標

奥ノ院龍泉寺入口の道標

四国遍禮名所図会より

MAP56-01(カシミール3Dにて作成)

MAP56-02

MAP56-03

(=^・^=)END

54番延命寺から55番別宮へ

54番延命寺から55番別宮間の道標・丁石

四国遍路道指南

 これより別宮まで壱里 是ハミしまの宮のまへ札所也 

 三嶋までハ海上七里有、故に是よりおがむ

四国遍禮名所図会

 仁王門より東の山を越るなり 此所より波止濱へ壱里

 松山領 今治領界 今治城左に見ゆる也 町家ひろし 泰山寺迄一里弐丁

 五十五番前宮 大積山金剛院光明寺南光坊と云う 越智郡今治 泰山寺へ一里弐丁

---------------------------------------

山門前の徳右衛門標石 「別宮迄1里」

道指南に書かれている「しるし石」と思われる真念標石

今治街道沿いに在ったのだろう

墓地の間の小坂を越えて下ると阿弥陀堂の前に道標

この先の道沿いには多く道標が残る

右に曲がり東へ進む

逆遍路で延命寺を示す道標

手差しの道標

2ヶ並ぶ道標

緩い坂を上った所には3基の道標

手差しの道標

附近には同じ手差しの道標が多く残る

2基並ぶ道標

瀬戸内しまなみ海道の高架下を通った先にある道標

石仏が並びその一つが道標

緩い坂を下った先の道標

この先は緩い登りの道で大谷墓地へ入り階段を登り墓地の間を通り行く

道から離れるが大谷墓地の12区横の無縁墓地に道標が1基

墓地の間を下り山方町の三叉路の道標

今治街道沿いの隅田橋脇には2基の道標

山方町2丁目の海禅寺には附近に在った中務茂兵衛道標が保存されている

遍路道の茶堂橋を渡った横にある道標

今治付近に多くの石造物を残している静道の道標(弘化4年)

南光坊の仁王門前には2基の道標

寺町の大仙寺にあるあごなし地蔵尊を案内する道標

1基は静道の道標

もとの札所であった大三島大山祗神社(三島ノ宮)

参道にある徳右衛門標石 別宮迄7里(海上7里)

大三島 大山積社(四国遍禮名所図会より)

55番別宮(南光坊

MAP55-01(カシミール3Dにて作成)

MAP55-02

MAP55-03

(=^・^=)END
























 

53番円明寺から54番延命寺へ②

53番円明寺から54番延命寺間の道標・丁石 2/2

四国遍禮名所図会

 (名所図会では52番円明寺から岩国、宮島、大三島と廻り

  四国に戻り54番延命寺へと向かう)

 一部抜粋

 五十五番三嶋社祭神 大山積大明神

  末社〇神楽殿〇大鳥居 石の鳥居なり 社家神主大堀大部

  ・・・・ 月光山神宮寺 社の左の山の側にあり 大師堂 此所より納経出る

  町此所にて休足いたし五ツ時小船を出し 鶴嶋 左手見ゆるしまなり 楠嶋 左手にあり         みたらひ八ツ時に迷田の濱に着する此所より上り迷田村

  是より圓明寺迄弐里 大井村 新町 町有 縣村 松山より十里塚有

 五拾四番近見山不動院延命寺 和気郡縣村 海道より左の山路へいる 別宮迄一り

 (迷田村は逆田と思われ距離からしても現在の佐方だろう)

----------------------------------

窓坂を越へてみかん畑を下って行くやがて道の右側の少し高台の小祠内に

この先、遍路道は東北方面へ進むが途中で旧道はゴルフ場となり消滅している

ゴルフ場の先の旧道にはゴルフ場の敷地に在った里程標が移設されている

松山より6里

菊間町に入り今治市役所菊間支所の片隅には里程標が置かれている

下部が埋まっているが松山より7里

元は1km少し先今は通らない街道沿いに在った

菊間の町の南側、国道から海側に少し入った不動堂の登り入口に置かれている道標

中務茂兵衛(明治21年

遍照院内には2基の道標

ひとつは中務茂兵衛道標(明治25年

境内西北にある下部が埋まっている道標

菊間町内の道標1(中務茂兵衛 明治25年

菊間町内の道標2(中務茂兵衛 明治25年

菊間川を渡り国道と合流して少し行き八幡前バス停横に道標が2基

明治時代の地図を見ると旧道はもう少し西側で分岐が在りそこに

有った道標が移設されたものだと思われる

これより右へ上って行く道が街道であるが海側にも道があり

こちらが遍路道だったのかもしれない

今は通らないがこれより右に行き少しの坂道が今治街道

そこに先の松山から7里の里程石が在ったようだ

やがて遍路道は石油製油所となり消滅し通れなくなっている

製油所手前には中務茂兵衛道標(明治25年

国道を通り400m程進むと左の道へ入る

すぐに青木地蔵堂等があり附近に道標2基

立場坂は国道となりこれを下りやがて国道から別れ右へ

旧道に入り種川を渡った先出雲大社越智教会前に少しの石造物があり

その中に下部欠損の道標も含まれる

今治市立亀岡小学校敷地内に里程標と道標2基

里程標は 松山より8里

これはこの先1km程先の高城付近に有ったようだ

道標が2基

佐方橋の傍らの道標

尚いくつかの道中日記で宮島方面から四国に入る場所で「佐嘉浦」「さかた村」「佐賀田町」などという地名が出てくるがおそらく佐方の事だろう

佐方の集落の北の分岐にある中務茂兵衛道標(大正2年

遍路道は真っすぐ進む

高城集落の中務茂兵衛道標(大正5年)

徳右衛門標石を再利用されたものと思われる

現在見当たらなくなってる

大西町脇の十字路

一字一石等の横に中務茂兵衛道標(明治27年

予讃線の踏切を渡った先の宮脇川脇に道標、里程石が集められている

徳右衛門標石 延命寺へ1里

大西町新町の道が右に折れる所にある道標(文政5年)

新町より少し先に在った道標は現在 

遍路道より南、山麓にある安養寺前に置かれている(弘化4年)

今治延喜郵便局横には石造物集められている

右奥にある墓碑型道標 圓明寺(延命寺へ8丁)延喜観音経由の道も示す

延喜観音3丁と示すから少し北に在った物だろう

この道標は最初観た時より少し移動し3丁の文字が埋まっている

右横の道標

附近の西国33所を示すものだろうか

次に450m程で遍路道今治街道から別れ左へ

少し進んだ先に2基の道標

延命寺のバス用駐車場入り口の中務茂兵衛歌碑道標(大正4年

溜池の横を通り寺入口にある道標1

寺入口にある道標2(天保12年)

山門をくぐり54番延命寺

MAP54-07

MAP54-08

MAP54-09

MAP54-10

MAP54-11

(=^・^=)END




 

 







































53番円明寺から54番延命寺へ①窓坂迄

53番円明寺から54番延命寺間の道標・丁石 1/2

四国遍路道指南

四国順拝道中記山口県文書館 WEB公開 文政5年)より抜粋

 五十三番円明寺 此次へ九里八丁 堀江村通りあわい坂大師堂あり 

 柳原村 北條町 町中に川有 過てあさなミ村 番所有 切手あらたむ

 大井村過て濱道也 風景宜 二見の海とも可謂所也 此次ニ瓦焼見物 

 夫よりあげ坂とて小坂あり キクマ村江三り 村はつれに小川あり、

 山道を少し行濱道ニ出る過ぎて立場坂、此坂をとおらす下ニ沖江出道あり

 たね村 此所ハ百姓や五六間あり、此村の氏神沖ひね明神参詣少し行て小川あり

 過て壱弍軒茶屋あり 夫よりさがたむら、大井村杯小村あり過て

 新町よりしき町也 夫より今わら村、田久間村、ゑき村 あがた村

第五十四番 △延命寺

---------------------------------------- 

円明寺前の道標(明治16年

船で宮島を経由して54番へ向かう遍路も多くいた

四国遍禮名所図会でも岩国、宮島経由で54番に向かっている

円明寺境内右 不動明王脇の道標

馬木町にある道標(文久3年)

へんろみちの刻字の下に馬木、台石に村と刻まれている

遍路橋を渡った先にある道標

遍路道は左へ向かう

次に70m程行くと右側に

この先の旧遍路道予讃線で消滅し通ることが出来ない。迂回する

再び旧道に入り小さな川を渡った先、道路に埋もれた道標

民家の庭に保存されている松山札の辻からの里程標(松山より2里)

宮島への舟のりばを示す道標(中務茂兵衛標石明治19年

現在建物が取り壊され工事中である。

今後、道標が無くならないか心配である

この先は海沿いの旧国道を進む。

やがて粟井坂にかかるのだが今は通ることが出来ない。

旧国道をそのまま進むと右側に粟井大師堂がありその横に山道を登る道があるが

れが粟井坂で松山側に登って行くと関所跡など開けた場所があり

郡堺碑等が残っている

郡堺碑はレプリカも設置してある

道標(享和3年)

粟井坂より北側に下り先の粟井坂大師堂に出ることが出来るが

下った先にある道標

粟井坂を下った所の大師堂は粟井坂の途中より移設されたようで

風早郡四国八十八箇所の第38番を示す標石、道標等も移設されている

金毘羅大門からの里程標も置かれている(金毘羅迄34里)

しばらくは旧国道だった県道347号線を北条迄北上する

途中に幾つかの道標が残る

伊予鉄バス停和田横の徳右衛門標石

延命寺迄7里7丁と半端な表記で徳右衛門さん和田村とは

何か特別なつながりがあったのだろうか

粟井橋バス停脇 蓮福寺北角の道標(大正8年

高野山とは粟井坂の大師堂を示しているようだ

次に450m程進み鹿峰の理髪店横の里程標 「松山より三里」

道路の反対側少し北には徳右衛門標石

札所ではなく菊間の遍照院を示している

これも距離表記が半端な数字である

付近の徳右衛門標石はすべて半端な距離を示している

新開を過ぎ県道から別れ左へ少し先に赤く塗られた地蔵が在りその後ろに

中務茂兵衛の初期の標石(明治19年

北条鹿島前バス停脇横には2基の道標

北条辻の道がクランク状となる所には3つの道標が集められている

ひとつは松山よりの里程標(松山より4里)

徳右衛門標石と花へんろ町と追刻されている道標

道の向かい側の道標(明治5年)

北条の旧道沿いにある道標

北条の北にある道標(明治33年)

予讃線の踏切を渡った先の分岐にある道標

是より遍路道は右へ

この分岐 昔の遍路道は右の道を進む(大正元年

この先坂道となるが坂の麓にある鎌大師内に道標

鴻之坂登りにある中務茂兵衛の道標(明治45年)

坂の下りにある中務茂兵衛の道標(大正4年

浅海原の番所跡にある徳右衛門標石

番所跡から800m程で旧遍路道は右へ窓坂峠を越えていくが

ほとんどの遍路人は国道を進むようです

旧道を右へ少し行った所は2基の道標が置かれている

中務茂兵衛道標(明治26年)と

上部欠損の道標

やがて窓坂へと向かうが峠に有った郡堺碑が移設されている

この先窓坂峠は少しの山道となるが概ね通ることが出来ました

MAP54-01(カシミール3Dにて作成)

MAP54-02

MAP54-03

MAP54-04

MAP54-05

MAP54-06

(=^・^=)END

















 

 

 











 

 

  

 

 

52番太山寺から53番円明寺へ

52番太山寺から53番円明寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 これより円明寺へ十八丁 

四国遍禮名所図会

 是より太山寺村の茶屋に戻りて荷物を請取行 次迄十八丁

 和気濱村

 五十三番須賀山正智院圓明寺 和気郡和気濱村 延命へ直道九り

現在歩くと3km程の道のりです

---------------------------------

太山寺への入口石段前の徳右衛門標石(円明寺迄18丁)

来た道を戻る。

片廻の県道沿いにある道標 近くより移設されたようだ

以前は川向いの和気小学校前に在った道標(円明寺へ5丁)

円明寺駐車場には付近より移設された道標 

53番円明寺

四国遍禮名所図会より

MAP53-01