四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

64番前神寺から65番三角寺へ②(延命寺から三島迄)

64番前神寺から65番三角寺間の道標・丁石②

土居延命寺から三島の石床大師堂迄

いざり松の案内道標 元は伊予土居駅近くに在ったと思われる

古子川に架かる明治時代のレンガ作りの橋(松風橋)

親柱の里程標

小林集会所前の領界石 いづれも近くの村境に在ったもの

国道を越えて西大道には 金毘羅里程標(明治44年)と三角寺へ3里の道標(寛政8年)

村上神社南の徳右衛門標石 「三角寺へ3里」

面白(つらじろ)川に架かる星流橋たもとには地蔵型道標

高速の土居ICへの道の下をくぐり大地川を渡った先には金毘羅里程標(明治41年

尚、土居ICの南にある熊野神社には領界石が移設されている(未確認)

豊岡町大町の道標(文政3年)

寒川町に入り寒川中部集会所前にはいくつかの3基の道標

金毘羅里程標はレプリカが置いてある

一つは徳右衛門標石 下部欠損おそらく「三角寺へ2里」

他の徳右衛門標石に比べ大きい

少し南の山手にある新長谷寺を示す道標(明治26年

初瀬橋を過ぎ100m足らず右側に台石型の道標が2基

是も新長谷寺への道標(宝暦12年、文政9年)

寒川変電所横の道標

寒川郵便局すぐ横には領界石

讃岐(金毘羅)街道との分岐(へんろわかれ)にある道標

附近の様子は国道のバイパスが出来大きく変わっている

2006年の写真

箸蔵寺への昭和58年再建の道標 2009年の写真

次に300m程で遍路道は右に入るが其処には2基の道標(明治18年天保3年)

石床大師堂には3基の道標

徳右衛門標石 上部欠損 「三角寺へ1里」

MAP65-08(カシミール3Dにて作成)

MAP65-09

MAP65-10

MAP65-11

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64番前神寺から65番三角寺へ①(誓松延命寺迄)

64番前神寺から65番三角寺間の道標・丁石①

前神寺から土居町延命寺

四国遍路道指南

四国遍禮名所図会

 爰より三角寺迄三里也 すの内村安住村川 常に河原也 大町 此所にて休息

 西條領是まて 松山領是より  上嶋山村 此所にて支度 半牛村中村

 〇国竜村小山 銅山川 此辺川上に銅を掘出す山あり 川水鶏印をときし如なり

 長野村 此所にて一宿 

    十五日 雨天出立 西ハ西條 東ハ松山 領境関村大師堂 同所に有

 〇川 石橋わたり  上野村 此所より讃岐象頭山見ゆる 土居村

 〇大坂講中接待 道の左にあり 誓の松 道の左接待店次にあり 名木結構なり

 天神社 松の側にあり 常村 此所にて支度仕候 長谷寺心見の観音 右の山路にあり 

    川中の庄村 此所にて支度 三嶋町 左に見ゆる 能き町也

 滝宮村牛頭天皇薬師堂 各滝宮にあり

 横尾村銀杏石 横尾村 某庭にあり 道の左屋敷にあり 

 是より由霊山迄山道なり十八丁餘

 六拾五番由霊山慈尊院三角寺 宇摩郡槇尾村 雲辺寺迄五り

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現在の64番前神寺から歩くと土居町延命寺迄は28km程の距離です

前神寺西口の道標(昭和8年) 石鎚山駅を案内

前神寺入口の茂兵衛道標(明治37年

前神寺参道途中の徳右衛門標石 「三角寺迄10里」

かつて石鎚神社に在った里前神寺からの移設だろう

次に遍路道賀茂川を渡るが明治末に架けられた橋は無くなっている

橋の両側にあった里程標

川を渡った先 地蔵堂脇の道標

西条へ向かう道との交差点にある道標(明治44年

寿し駒さんは横峰寺の小松からの道筋の丁石を設置したといわれている

西条市福武甲天皇の徳右衛門標石

下部は不明 おそらく三角寺迄9里だろう

横の道標(大正6年

遍路道ではなく国道沿いにある道標

徳右衛門標石と似通っているが施主などの刻字がなく

再建されたものではないだろうか

西条市飯岡の金毘羅里程標 「金毘羅へ17里」

川之江の三島までは遍路道は金毘羅街道(讃岐街道)と重なる

飯岡公民館には領界石「従是東小松領」が保管されているが未確認

飯岡半田に有る「堂の本地蔵屋敷」傍には徳右衛門標石 「三角寺迄8里」

新居浜市萩生 岸ノ下の道標

昔は付近に宿屋が数軒あったようだ

金毘羅の里程標 下部はブロック塀に近く読み取れないがおそらく金毘羅迄16里

遍路道から南へ300m少しの萩生寺内には徳右衛門標石が移設保管されている

三角寺迄7里」

遍路道は喜光地商店街のアーケードを通る

商店街を抜けた先には4基の道標

旧道に残る徳右衛門標石 三角寺迄6里だろう

この先は国領川があり通ることは出来ない

国領を過ぎて国道と合流して少しの坂を上り芭蕉の句碑を過ぎ

長野には金毘羅里程標 「金毘羅より14里」

附近にある大正年間開創の新居浜八十八ヶ所を示す道標

関ノ戸には郡界石が在るようだが確認出来なかった

土居町上野に入ると道は二筋に分かれる

左の道筋の金毘羅里程標は撤去されたのか見当たらなかった

右側の道筋にある地蔵型道標(安永9年)

茂兵衛道標(明治22年

JRの踏切を渡った先にある道標(昭和9年

土居町畑野の民家ブロック塀にある徳右衛門標石 「三角寺迄4里」

別子銅山方面を示す道標

延命寺向いの「いざり松」のあった敷地内にはいくつかの道標

034と035の道標の頭部がへこんでいるのは

「いざり松」の枝を支える支柱として利用されていた為

「いざり松」は昭和43年に枯れてその一部が置いてありその横には領界石

MAP65-01(カシミール3Dにて作成)

MAP65-02

MAP65-03

MAP65-04

MAP65-05

MAP65-06

MAP65-07

MAP65-08

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63番吉祥寺から64番前神寺へ

63番吉祥寺から64番前神寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 これより里まへ神寺へ一里 ならの木村 石仏地蔵堂あり

 〇にしいづミ村 過てだんといふ所

 六十四番里前神寺 山上 堂はひがしむき 新居郡

四国遍禮名所図会

 これより門を出 西泉村・・ 奈良木邑 たん村 

 石燈篭 是より前神寺へいるなり 石ノ大鳥居 馬場の半場に在

 六拾四番里前神寺 新居郡檀村 三角寺迄十里

現在歩くと旧札所の石鎚神社と今の札所前神寺迄はほぼ同じ距離で

3.3km程の道法です

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吉祥寺の北側裏門前に徳右衛門標石 

道指南など昔の案内記では前神寺迄一里とあり

寺の東入口の道標(安永9年)「前神寺へ20丁」

200m程南にある芝之井加持水も示す

本堂横の庫裏に置かれている道標 以前は入口に置かれていた

寺の敷地内に明治14年銘の道標が2基 いづれも和田屋の道標

円柱型

讃岐街道の道標(安政5年)

しばらくは讃岐街道を東へ向かう

西条市へ向かう道の三叉路の道標 遍路道はまっすぐ進む

西条市西泉にある阿弥陀寺横の藤棚脇には2基の道標

金毘羅の里程標 「金毘羅より19里」

少し山手に在る天満神社を示す道標

石鎚神社参道の途中右側にある道標

江戸時代の前神寺は今の石鎚神社内に有った

西條誌稿本の前神寺絵図

石鎚神社への入口から少し海側に行った所の道標

現在の前神寺への入口から寺までの間には道標、丁石が移設されている

四国遍禮名所図会より

MAP64-01(カシミール3Dにて作成)

MAP64-02

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62番一ノ宮(宝寿寺)から63番吉祥寺へ

62番一の宮(宝壽寺)63番吉祥寺間の道標

四国遍禮道指南

 是より吉祥寺まで七町 壱町程のわきに小まつの町

 六十三番 吉祥寺 平地 にしみなミ にゐ郡氷見村

四国遍禮名所図会

 これより小松城下へ出、此所にて一宿・・・

 町を放れ小松領、西条領堺 林昌寺 町放れより少し行左にあり

  法花寺也 大寺也  菅の浮橋 林昌寺のはなれ小き板のはし也

    氷見町 よき町なり町長し 柴井の水 大師伽持の名水也道の右手にあり

 石大師 水の上にあり 

 六十三番密教胎蔵院吉祥寺 新居郡氷見町 前神寺迄一里

 

現在歩くと1.4km程の道法です

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宝寿寺入口の左側に徳右衛門標石 「吉祥寺迄7丁」

JR線路脇の道標(文久4年和田屋)

JR伊予小松駅前にある比較的新しい道標

讃岐街道沿いの道標(天保9年)

讃岐街道を進み 小松藩と西条藩の領界

西條誌稿本の絵図にあるように昔は「従是西小松領」も並んで立っていた

吉祥寺境内に横倒しで置いてあった道標(昭和3年

西予市宇和町愛媛県歴史文化博物館に保管されている茂兵衛道標(大正3年

63-07,08の道標は国道を通る遍路道沿いに在った

国道から左へ入った先 右へ曲がる所に有る茂兵衛道標(明治36年

四国遍禮名所図会より

MAP63-01(カシミール3Dにて作成)

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61番香園寺から62番一の宮(宝寿寺)へ

61番香園寺から62番一の宮(宝壽寺)間の道標

四国遍禮道指南

 是より一の宮まで八町

 六十二番一ノ宮 平地 東向 周(布)郡新屋敷

四国遍禮名所図会

 一宮へ八丁

 六十二番一ノ宮天養山観音院寶壽寺 周布郡新屋敷 吉祥寺迄七丁

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寺前の徳右衛門標石

右面の手差し等は追刻

横に

現在の参道ではなく少し南の旧道を行くと自然石の道標が有ったようだが

今は近くの墓地に移動しているようだ

茂兵衛道標(明治36年

香園寺参道入口の少し先には3基の道標が集められている

附近多くの道標等を設置している和田屋利平の道標(明治14年

清楽寺は明治初期廃仏毀釈横峰寺が廃寺となり一時期60番札所となっていた

横峰寺が復興してからは60番前札所となる

三嶋神社前には和田屋の道標とこんぴらの里程標、向かいには茂兵衛道標

茂兵衛道標(明治33年)

こんぴら里程標

東へ向かい藤木橋を渡った先にある茂兵衛道標(明治19年

JR踏切近くには円柱タイプの茂兵衛道標(明治34年

宝寿寺の入口右側の道標(昭和6年

宝寿寺入口左側には4基の道標が並ぶ

1基は徳右衛門標石

四国遍禮名所図会より

62番宝寿寺は鉄道施設にあたり一の宮神社近くから移動している

MAP62-1(カシミール3Dにて作成)

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60番横峰寺から61番香園寺へ

60番横峰寺から61番香園寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 是よりかうおんじまで三里 右の大戸村へもどる

 〇此川有〇ミやうぐち村〇香苑寺村

 六十一番香園寺 平地 ひがしむき 周(布)郡かうおんじ村

四国遍禮名所図会

 是より大頭町迄下り 支度致し 香苑寺へ廿丁 明口村 香苑寺村

 六十壱番栴檀山教王院香苑寺 周布郡かうおんじ村 一の宮へ八丁

四国遍路道中雑誌松浦武四郎)より

横峯より直ニ香園寺へ下るには、山の端横道七十五丁。此間茶店所々に有。

止宿によろし。下りて 小松町 一萬石。一柳候の城下也。

商戸を並べてよろしきところ也。出て田道しばし行て
六十一番栴檀山教王院香園寺 六十番従八十弍丁也。小松町従七丁也。

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江戸時代一般的に横峰寺からは来た道を大頭迄戻りそれより香園寺へと向かっていたが

江戸末期以降は横峰寺からは北方に進み小松町へ出てそれより香園寺へと行く遍路も多くいたようだ。

昭和9年大阪の欽英堂書店発行「四国遍路たより」より

 古坊に打戻って右へ一町半も行くと右側に落武者とかの塚があり。

 子供の熱病に御利益があるとて玩具の太刀が沢山上がって居ります。

 山を下って暫し山の背を歩いて又、山へ上りますと三十三町のところに

 茶店が一軒あり、そこから二町参りますと燧灘の眺めがよろしいです。

 七町もすると愈々下りとなって谷間の平地を行き更に七町行って段路

 を下ると後は全く平地で。

 六十一番は岡村から国道に出て左へ小松橋を渡り暫し行くと、

 左へ広い参道の奥にあります。

 

現在の遍路道を歩くと大頭経由では大頭迄8kmそれより香園寺へ4km程 

小松経由では10km程の道法です

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大頭迄の打戻りの道筋には道標が見当たらないので

ここでは小松経由の道沿いの道標等を示します

 

横峰寺からは「四国の道」を北へしばらく歩きます途中には道案内の標木がある

舗装された道を進む途中右側に

バス乗り場方面への分岐には「従峰2丁」

これらの丁石は大頭からの横峰寺への登りに在ったのではないだろうか

左へと進む 暫く広い道を歩きやがて案内標識より左へ山道を下る

下っていくと小松よりと示す地蔵が有る。附近には古坊からの道が合流していた

これより地蔵型の丁石が多く残る

新屋敷村は小松町新屋敷

32丁石の先で少し開けた所に出る。昔は茶店があったようだ

ここに道標があり香園寺へ二つの道筋があると示す

古い遍路道は明治末の地形図からすると右へ進み網付山付近を通り岡村を経て香園寺へと向かっていたと思われる。今は真っすぐ香園寺奥の院方面へ進む。

丁石が続く

この先道が広くなり工事で撤去されたのか42丁から先の丁石は見当たらない

採石場横を通った先には60丁を示す丁石

是によると一部の丁石は昭和七年に設置されたようだ

車道を進み高速の下を通って400m程の所に下部埋没の道標(文政4年)

遍路道に合流する

是より岡村の集落に入る

茂兵衛の道標(明治35年

横峰寺は明治の始め廃仏毀釈により廃寺となったが明治半ばに仁王門の下より少し入った所に大峰寺として札所を再開した。

小松町に入り横峰寺(大峰寺)への道の入口にある道標

慶応4年に大峯寺はないので明治期に追刻されたものだろう

是より西に進む

メイン道路から少し外れた旧道沿いにある道標(弘化4年)

茂兵衛道標(明治36年

小松橋を渡り香園寺へ向かう

四国遍禮名所図会より

MAP61-01(カシミール3Dにて作成)

MAP61別-01

MAP61別-02

MAP61別-03

MAP61別-04

MAP61別-05

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59番国分寺から60番横峰寺へ2/2(小松町大頭から横峰寺迄)

59番国分寺から60番横峰寺間の道標・丁石1/2(小松町大頭から横峰寺迄)

昭和9年大阪の欽英堂書店発行「四国遍路たより」には昔の道の様子が分かるので

 面白いでここに抜粋記載します。

 妙雲寺から横峰寺へ一里三十五町

 渓の流れに沿ふて大郷を経て二十五町の間は平地、それから左へ山を登ります

 寺まで四十六町、湯浪まで十三町半、湯浪から先は人家はありません。

 一山越えて小川を渡ると寺まで三十三町、暫し行くと湯浪村、

 石垣を築いた村を通って堂社のところから愈々登りになります。

 三十一町の標の先で石を伝って川を渡ります。

 そこに御來迎所とした文化十四年の碑が建っていて瀧の流れも何となく森厳です。

 一町毎に標を打った渓間をあちらこちら渡って、途中に大師野宿の跡や、御履跡石

 開山の節身体を清めて御登山になったという垢離水行川(こりとりがわ)や大師岩の

 旧跡を拝して、後六町の所まで参りますと古坊と言ふて此所は昔七堂伽藍が

 ならび立っていたところで・・・今の横峰寺は中院であったそうです。

 六十一番へは此所へ打ち戻って二里です。

 

小松町大頭からは概ね県道147号線を南へ進む

妙之谷川沿いに進み川を渡った先の分岐には最初確認した時は半分埋まっていたが今は全体が確認できる道標(宝暦4年)

 

小さな大郷大師堂の中には上部欠損の丁石

やがて旧遍路道は県道から別れ左側の山の中を通る

不鮮明であるが一部通ることが出来

幾つかの丁石、徳右衛門標石等が残る

徳右衛門標石 「横峰寺迄50丁」

愛媛県生涯学習センター発行の「伊予の遍路道」によると旧遍路道沿いには

46丁、40丁、39丁、37丁、34丁、36丁、31丁の丁石も残るようだが未確認

県道を右に曲がる所、尾崎神社前には自然石の石造物があり

読み取りづらいが道標のように思われた

道路の擁壁の中に道標

しばらくは県道を進む「峯より40丁」

2基の丁石

湯浪休憩所からは階段を登り山に入って行く

山道沿いには途中多くの丁石等が残る

14丁石も在るようだが未確認

「従峯十三町」の角柱町石は見落としたのか未確認

少し行くと少し開けた所が有り古坊と言う集落があった様で確認してないが附近より香園寺へと行けたようだ

ニ基の道標が倒れた状態で残る

横峰寺山門前の道標(明治3年)

60番横峰寺 四国遍禮名所図会より

MAP60-08(カシミール3Dにて作成)

MAP60-09

MAP60-10

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