四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

20番鶴林寺奥ノ院道(灌頂ケ瀧)1

19番立江寺から20番鶴林寺へ直接向かわずに20番鶴林寺奥ノ院(慈眼寺)を経由する道筋で勝浦郡生名より横瀬、坂本、黄檗を経て奥ノ院慈眼寺へ行き、それより横瀬までもどり鶴林寺へと向かう

各種案内記、道中日記等から記載内容を要訳抜粋

四国偏礼道指南(貞享4年 1687年) 

  森村(生名)より鶴林寺へ十八町、坂。但し奥院へ行く時は森村より二里半

  此間に勝浦川有り。森村より十五丁余ここ(横瀬)に荷物おき、奥院へ行く

  与川内、坂本、黄檗、大久保と集落を通り少し行くと灌頂ケ瀧、拝所が有る

  これより八町登ると奥の院に着く。月頂山慈眼寺 鶴林寺林寺奥院

  本尊不動尊は上人の作。寺より三丁余西に堂あり。少し上に岩穴あり胎内くぐり

  という。

燈下録(江戸後期刊) 新編阿波叢書上巻 P425より

  灌頂滝
  坂本村道の傍、右手に弘法大師の石像あり、六尺(1.6m)に四尺(1.2m)ばかりの

  小堂に安置す、椅子下の台石に文字が刻まれ

  『此の村に昔より霜降らず、蛭虫人を吸はず大師の封じ給ふ所なり』とある。

  此の所より三十丁計行くと黄檗村の谷を隔て左手の方向いの山に灌頂ケ滝あり、

  高さ四十丈(120m)もあると思える。横幅三丈(9m)ばかりで下の方では霧状になる

  快晴の日には朝日に照らされて中程に五色の炎が現れ大さ二丈(6m)ばかり周囲は

  紅く中心は青色である日が高くなってくると消える。曇り空では見ることができ

  ない。是を不動尊の来迎という、こちら側に滝見堂あり。不動尊を安置している

  此の所より滝のもとへ下り道四丁余りで慈眼寺へ登る道十五丁程

   (瀧を経由で慈眼寺へ行くルートもあったのだろうか?)

四国遍路道中雑誌 松浦武四郎 天保6年

  横瀬より灌頂ケ瀧へ六十五丁、黄檗村より十八丁九折を登って庵寺あり。

  灌頂ケ滝は巾凡そ六尺(1.8m)程、長五丈(150m)程 朝四ツ時晴れた時は日光

  により焔のように見え不動尊の像が現れると伝える。来迎の瀧とも云う。

  不動堂拝所に有、是より少し坂を登り橋が有。是を渡り又九折を八丁のぼると鶴山

  奥院という慈眼寺があり大師堂少し登り大杉、さらに弐丁登ると観音堂地蔵尊

  弁天社、向いに籠堂。是より禅定するには慈眼寺より案内にて廻る。

  (禅定について詳しく書いている)

  元の道六十五丁をうちもどり横瀬に戻り坂道を登る小川を渡り十八丁で三宝荒神

  熊野三社、仁王門、上に六角堂、追分があり立江寺からの道と出会う。

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四国遍路たより 昭和9年 欽英堂書店発行

  [乗り合い自動車で森村より横瀬迄15銭、横瀬から坂本トンネル東口迄25銭]
  坂本トンネル東口から三十一町登ると慈眼寺。途中左に谷を隔てて朝日の瀧

  があります。来迎の瀧、灌頂ケ瀧とも云い、高さ四十六丈八尺、中間に突出

  した岩が有り午前八時から十時迄、晴天には瀧が岩に当たり霧になりこれに

  日光が当たり七色に輝き大変綺麗である。

⑤四国順拝道中記 文政5年 山口県文書館蔵でWEBで解読されたものを見れます

   道中がよくわかり面白いです。一部読み易くしてます。

     森村、今日いまだ八ツ半時に御座候ヘ共、鶴の奥の院漢頂ヶ滝来向拝し度候に付、

    此所より七十五丁有之、此森村に泊る、よろしき宿有、此所より本寺奥の院への

    わかれ道あり、米九十文、木ちん廿文、ふとん三十文、今晩肥州の夫婦連同行と
  同宿仕候、○晦日出立、扨奥の院ヘ参る時ハ此村に荷物を預ケ置と申候へは、

 儀介は本寺迄参らせ待せ申候、先右の宿より川端を通り行、迷道多し、問てよし

 三十丁計行、かつら川行戻り、渡しちん弐文、此所も宿やあり、道谷々川々多し、

 餅茶店は折々有之也、夫より漢頂ヶ滝迄行、正辰巳之刻、弥御来向慥拝し難有事に

 御座候、夫より三丁登り不動像堂あり、大師御作十弐文開帳、是より廿丁登り奥の院

 の前札所あり、此所にて奥の院岩屋禅定の輩は五十五銅ニて手引切て(切手)をもら

 ふ、私共は禅定は致し不申候、扨是より奥の院迄又々坂八丁計登り参詣仕候、禅定の

 輩は此所にて白将束(白装束)を着かへ手引人を連れて参り申候、扨不動堂迄下り候

 所、最早今日実に御来向拝し、其外拝見所数々致し、時刻も八ツ時に相成申候、扨

 今日は右打戻り之場所に付、おわけ抔も皆荷物に附置候に付、腹合すき候へ共致方無

 之候所、少々下り壱軒やあり、是にて御飯を乞請安心致候、扨々難渋成事に合申候、

 此後参詣之人柄にも荷物はおき候而もおわけは是非持参する事也、夫よりかつら川迄

 戻り、此所にて鶴林寺道と相尋べき事也、是より川渡り鶴の御山へ十八丁の誠に立板

 之如く急坂あり

  http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/kouza-kaidoku/H26g-01.pdf

道標・丁石

奥ノ院道の道筋には道標及び時代が違う角柱形の丁石がいくつか残っており廃道となっている遍路道にも丁石が残っています。但し歩いて廻って確認したので見落としや、移設により場所が変わっている道標等もあるかと思います。又、一部数年前の写真が有るので現況は変わっているかも知れません。

 

勝浦郡勝浦町生名の集落から鶴林寺道に入らず真っすぐに西へ進むのが奥ノ院道ですが

鶴林寺との分岐に在ったと考えられる道標が生名の東林庵に2基あります

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1基は正面右手にある2m程の大きな道標(天保2年 1831年

裏に奥之院について刻字されているようです草書体の文字で解読が出来ませんでした

台座にも何か刻字されています

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右奥の石造物の中に地蔵台石型の道標(安永6年 1777年)

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何れも右へ行けば奥之院、左へ行けば鶴林寺と表している。

「20奥-22]の道標には瀧迄一里20丁(四国偏礼道指南には阿波では48町が1里としている)68町とすると元の設置場所は横瀬付近に在ったのだろうか?

四国遍路道中雑誌には横瀬から瀧まで85丁とある

 

東林庵からすぐの民宿金子やの前には、この先鶴林寺への道筋にあった道標が移設されています。(大正12年 1923年)

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この先、鶴林寺の標石の所で左へ行けば鶴林寺、真っすぐ行けば奥ノ院への道です

それより100m程で鶴林寺への車道の入口がありそこに

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この先は県道を通りますが横瀬まで道標は見られませんでした

 

浦川の手前を左に行くのが奥之院へ行きそれより鶴林寺へ向かう道です。

浦川横瀬橋)を渡り2km弱で右側に星越庵が見えその前の標石

(延享2年 1745年)

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庵から600m程先の小川に架かる親柱には

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それより1km程先の二股に分れる所に道標(大正11年 1922年)

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遍路道は左に進みます。200m程で道路の右側に見落としそうな奥ノ院道では

最初の丁石

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 (=^・^=)NEXT

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 MAP2

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 MAP4

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 (=^・^=)END