参考文献には
①澄禅 遍路日記 「神峯、麓ノ濱より峯へ上ル事五十丁一里也」
②真念 四国遍路道指南「是よりかうのミねじ迄七里
○たうのはま、かうの峯まで坂、ふもとにやうしん庵
荷物をここにおき札じまひよし」
③道中日記(安永七年)「一 西寺より 吉良川へ壱り斗
一 吉良川より田の浦へ 三里
一 田の浦より かうの峯へ 三里
とうのはま村 是より丁切(丁石)有。卅八丁
廿八丁目庵ニ荷物預ケ置、十五町目より登り急也」
仁王門前には徳右衛門標石 「神峯迄 六里」
案内記などでは寺迄7里とあり元は少し先に在ったのかとも思いましたが
「四国中道筋日記」文化二年には
此所(寺)より道しるべ(四国偏礼道指南)には七りと有。
御庭の立石には六りと有。
と書かれていて昔から場所は変わっていないようです。
古い時代には道筋が違っていたのだろうかしかし一里の差は大きいので26番からは来た道を戻り海岸沿いを進んだのだのか。又はこの先に在る徳右衛門標石には麓迄の里程を示しているものが有ることから麓迄の距離とも考えられ、これだとつじつまが合う
西寺の西側出口付近には坂元へ8丁の丁石が在るが麓迄は旧道と思われる道を歩くと1.6kmほどある。
明治から大正にかけて出版された案内記「四国遍路 同行二人」には
次へ七里十四丁余(旧七里)打抜け右へ八丁(実際は十四丁もあらんか)
すぐ先の本坊への分岐に道標が有り分岐を左へ行くと本坊がある。遍路道はまっすぐ進む。
少し進み分岐を右に折れ西向きに行く所に道標と丁石と思われる舟形地蔵がありこれが遍路本道で。南へ向かうと海岸沿いにある女人堂へ行くことが出来る。
次に4丁石
次に
やがて下りの山道となり幾つかの丁石が残る
慶応9年の道祖神を過ぎて上部欠損の丁石
やがて海岸沿い出て海岸近くの道をしばらく歩き吉良川、羽根と過ぎて西の浜には徳右衛門標石が在り「神峯麓へ三里半」
この先、中山の台地へ登りこれを下ると加領郷でこの先、奈半利迄は殆ど国道を進む。
奈半利に入る手前の右に折れる所に二つに折れている徳右衛門標石と手差しの道標
奈半利川を渡った先、田野町の入口には四国中に幾つかの標石を設置している、川の屋政吉の道標がある。特徴は手を開いている手差しの道標で数多く残っていて名前を刻んでる道標及び標石は5基残っています。
田野町を過ぎ安田川を渡り安田町、江戸時代には安田小学校西に在った常行寺(廃寺)で神峯の納経を行っていたようで。
享和2年の四国遍路道中日記(平野作左衛門)には
「二十七番竹林山 神峯寺 坂けハし、堂斗りにて寺なし
納経は安田浦の寺にて取ル」とあり
一部の納経帳に別當常行寺とあります。
安田町の出口で土佐街道から別れ右に入る所に中務茂兵衛の道標
そして川を渡り右へ、ごめん・なはり線下を通った先に鳥居が有。周辺に幾つかの道標が集められている。打戻りと云い是より神峯寺迄行ってここへ戻ってくる。
2009年時の写真
2001年時の写真
2018年時の写真
是より神峯寺迄3.4km程で元の札所が有った神峯神社へはさらに400m程登ります。
尚、唐浜には中務茂兵衛の「神峯道 これより三十五丁あまり」と記す道標が有った様ですが見当たりませんでした
MAP27-1~5(カシミール3Dにて作成)
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