43番明石寺から44番菅生山(大宝寺)間の道標・丁石 1/2
四国遍路道指南より
現在の遍路道を歩くと
鳥坂峠登り口から大洲迄 10km
大洲から内子町迄 13km
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明石寺山門横の手水脇に徳右衛門標石「菅生山迄21里」
道指南等多くの遍路案内記には次の44番菅生山(大宝寺)迄は21里と書かれているが現在の遍路道を歩いた距離を調べると約71kmであった。
江戸時代と少しは道筋が違っているが21里(約82km)と大きくかけ離れている。
一里とは半時(1時間)で歩ける距離で時代、地方によって違っていたようで
四国遍路道指南には1里の町数が阿波は48町 土佐は50町 伊予と讃岐は36町と書かれている。
江戸時代に書かれた道中日記では
・明石より うの町へ拾丁斗 ・卯の町より 東ただへ 二り半
・東多田より 大すへ二り半 ・大洲より にいやへ壱り半
・にい屋より 内野(内子)へ壱り半 ・内野(内子)より 大瀬へ 二里
・大瀬より すかう(菅生山)へ 六り
合計43番から44番迄は16里10丁余としていて遍路記にある21里とは
50町が一里の積りであった為に差がある旨が書かれている。
すなわち21里✖36町=756町 756町÷50町=15.1里となる
明治45年の案内記には17里14町余(旧21里)と書かれている
すぐ近く44番への遍路道登り口に
西の方へ少しの山道を越えて下ると卯之町に入る
町内には町境界を示す碑がいくつか残っている
遍路道でから外れるが町の南には
次に今は無くなってしまったが八幡浜方面を示す道標(明治19年)
徳右衛門の標石 「菅生山へ20里」
県道を左へ行くと八幡浜方面へと向かう
すぐ横の池の下にある道標(昭和6年)
国道56号線と並行している旧道を北へ進む
東多田にある各所への案内を示す道標(昭和4年)
金毘羅へ46里
すぐ先には徳右衛門標石
下部が埋まっているが恐らく菅生山迄18里だろう
領界碑1(宇和島領と大洲領)
領界碑2 国道沿いの県道との分岐に移設されている
四国遍礼名所図会に書かれている出石寺への道の分岐を示すのだろう
道筋は不明であるが付近より北へ進み出石寺へ向かったと思われる
鳥坂峠付近にある丁石と思われる石造物
山の中をしばらく進むと石で囲われた地蔵台石道標
少し行くと車道となり徳右衛門標石と地蔵型の道標が集められている
菅生山迄17里
四国遍礼名所図会に書かれている常接待所を示す道標
昔の人は山の中でこれを見てほっとしたことだろう
この先尾根筋を通る旧道は廃道となり通ることが出来ず市道を進んでいく
札掛を過ぎて北只までもほとんど旧道はゴルフ場などで通ることが出来ず国道を進む
北只からは嵩富川の東岸の旧道を進みやがて嵩富橋で川を渡るがおそらく橋の親柱に
長浜への距離を示していたと 思われるが今は橋が新しくなってなくなっていた。
大洲城下の入り口にある道標
菅生山16里
大洲城下を過ぎて肱川を渡り大洲市若宮には中務茂兵衛の道標(明治40年)217度目
十夜ケ橋横には徳右衛門標石 「菅生山迄12里」
玉垣の道標
橋を渡った所の道標
現在は先の徳右衛門標石の横に置かれている
附近の遍路道は消滅していて国道を通る
新谷の帝京第五高等学校北の県道脇に幾つかの石造物が集められている
ひとつは徳右衛門標石 「菅生山へ10里」
ほかに二つの道標
この先しばらくは国道56号線を通る
黒内坊で左の旧道に入る。そこに徳右衛門標石 「菅生山迄9里」
旧道を進み内子運動公園を過ぎると右に駄馬池、左に思案堂が有る
そこに二つの道標
ひとつは金毘羅への里程標(天保4年) 「金毘羅大門へ38里」
やがてJRを下を通り古い町並みが残る内子町に入る。
MAP44-01(カシミール3Dにて作成)
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