四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

53番円明寺から54番延命寺へ①窓坂迄

53番円明寺から54番延命寺間の道標・丁石 1/2

四国遍路道指南

四国順拝道中記山口県文書館 WEB公開 文政5年)より抜粋

 五十三番円明寺 此次へ九里八丁 堀江村通りあわい坂大師堂あり 

 柳原村 北條町 町中に川有 過てあさなミ村 番所有 切手あらたむ

 大井村過て濱道也 風景宜 二見の海とも可謂所也 此次ニ瓦焼見物 

 夫よりあげ坂とて小坂あり キクマ村江三り 村はつれに小川あり、

 山道を少し行濱道ニ出る過ぎて立場坂、此坂をとおらす下ニ沖江出道あり

 たね村 此所ハ百姓や五六間あり、此村の氏神沖ひね明神参詣少し行て小川あり

 過て壱弍軒茶屋あり 夫よりさがたむら、大井村杯小村あり過て

 新町よりしき町也 夫より今わら村、田久間村、ゑき村 あがた村

第五十四番 △延命寺

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円明寺前の道標(明治16年

船で宮島を経由して54番へ向かう遍路も多くいた

四国遍禮名所図会でも岩国、宮島経由で54番に向かっている

円明寺境内右 不動明王脇の道標

馬木町にある道標(文久3年)

へんろみちの刻字の下に馬木、台石に村と刻まれている

遍路橋を渡った先にある道標

遍路道は左へ向かう

次に70m程行くと右側に

この先の旧遍路道予讃線で消滅し通ることが出来ない。迂回する

再び旧道に入り小さな川を渡った先、道路に埋もれた道標

民家の庭に保存されている松山札の辻からの里程標(松山より2里)

宮島への舟のりばを示す道標(中務茂兵衛標石明治19年

現在建物が取り壊され工事中である。

今後、道標が無くならないか心配である

この先は海沿いの旧国道を進む。

やがて粟井坂にかかるのだが今は通ることが出来ない。

旧国道をそのまま進むと右側に粟井大師堂がありその横に山道を登る道があるが

れが粟井坂で松山側に登って行くと関所跡など開けた場所があり

郡堺碑等が残っている

郡堺碑はレプリカも設置してある

道標(享和3年)

粟井坂より北側に下り先の粟井坂大師堂に出ることが出来るが

下った先にある道標

粟井坂を下った所の大師堂は粟井坂の途中より移設されたようで

風早郡四国八十八箇所の第38番を示す標石、道標等も移設されている

金毘羅大門からの里程標も置かれている(金毘羅迄34里)

しばらくは旧国道だった県道347号線を北条迄北上する

途中に幾つかの道標が残る

伊予鉄バス停和田横の徳右衛門標石

延命寺迄7里7丁と半端な表記で徳右衛門さん和田村とは

何か特別なつながりがあったのだろうか

粟井橋バス停脇 蓮福寺北角の道標(大正8年

高野山とは粟井坂の大師堂を示しているようだ

次に450m程進み鹿峰の理髪店横の里程標 「松山より三里」

道路の反対側少し北には徳右衛門標石

札所ではなく菊間の遍照院を示している

これも距離表記が半端な数字である

付近の徳右衛門標石はすべて半端な距離を示している

新開を過ぎ県道から別れ左へ少し先に赤く塗られた地蔵が在りその後ろに

中務茂兵衛の初期の標石(明治19年

北条鹿島前バス停脇横には2基の道標

北条辻の道がクランク状となる所には3つの道標が集められている

ひとつは松山よりの里程標(松山より4里)

徳右衛門標石と花へんろ町と追刻されている道標

道の向かい側の道標(明治5年)

北条の旧道沿いにある道標

北条の北にある道標(明治33年)

予讃線の踏切を渡った先の分岐にある道標

是より遍路道は右へ

この分岐 昔の遍路道は右の道を進む(大正元年

この先坂道となるが坂の麓にある鎌大師内に道標

鴻之坂登りにある中務茂兵衛の道標(明治45年)

坂の下りにある中務茂兵衛の道標(大正4年

浅海原の番所跡にある徳右衛門標石

番所跡から800m程で旧遍路道は右へ窓坂峠を越えていくが

ほとんどの遍路人は国道を進むようです

旧道を右へ少し行った所は2基の道標が置かれている

中務茂兵衛道標(明治26年)と

上部欠損の道標

やがて窓坂へと向かうが峠に有った郡堺碑が移設されている

この先窓坂峠は少しの山道となるが概ね通ることが出来ました

MAP54-01(カシミール3Dにて作成)

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