四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

琴弾八幡宮から68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺へ

68番琴弾神社から68番観音寺、70番本山寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

琴弾八幡宮から西へ観音寺へ向かう下り口には2基の道標

階段を下り車道に出て象ヶ鼻の展望台に向かう道路脇には道標が在ったが現在は見当たらなくなっている

車道を下り右に入ると69番観音寺、と68番神恵院

四国遍禮名所図会

駐車場へ向かう途中にある道標 観音寺境内には西国33ヶ所のミニ霊場があり観音像が並んでいる

観音寺の仁王門を出て下る階段脇には徳右衛門標石と2基の道標

これより本山寺

豊田郡の写し西国三十三所を示す道標

染川橋の脇には照蓮標石

マルモ印刷前の道標

県道から右へ別れ小川を渡った先の道標

すぐ近くには「右遍ん路道 大水には左へ行」と記す文政六年の道標が在ったようだが行方不明となっている。財田川北を進む

財田川南側の71番へ向かう別の道沿いにある道標

本山寺橋南側の道標

本大交差点には二つに折れ放置されていた道標があったが現在は見当たらない

四国遍禮名所図会 70番本山寺

道標MAP(カシミール3Dにて作成)

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67番大興寺から68番琴弾八幡宮へ

67番大興寺から68番琴弾八幡宮間の道標・丁石

67番大興寺から68番琴弾八幡宮への遍路道には多くの丁切地蔵が残り真念標石、照蓮標石、中務茂兵衛標石も残っていますが徳右衛門標石は見当たりません。

大興寺本堂から仁王門に下る階段脇の道標

仁王門脇の道標

仁王門の先には3基の道標が並んでいます

この先、観音寺市池之尻町まで丁切地蔵が多く残っていて38丁石迄確認

3基の丁石が集められています

資料(山本の石仏探訪)によると七丁石が少し離れた墓地に又、菅生神社近くには移設された道標が在るようですが未確認です

国道沿いに丁石「小松尾寺まで八丁」と中務茂兵衛の標石

9丁石には年号が記されていている(明和4年 1767年)

やがて遍路道は右へ細い路地を通る

墓地の片隅には15丁

尚、この付近に在った真念標石は琴弾公園内の道の駅横にある郷土資料館に保管されていたが現在は閉館となっているもようです

金神神社近くの真念標石 観音寺市内には5基と多くの真念標石が残っている

すぐ先に丁石と思われる地蔵

豊田小学校よこを過ぎた先の道標(一部手直しされている)

池之尻町の心光院前には3基の丁石が集められている

県道24号線を横切る手前には2基の道標と上部欠損の28丁石

奥に見えるのは移動した茂兵衛標石

中務茂兵衛の標石は少し移動している(写真は2009年 移動前)

現在の遍路道は左へ行くが江戸時代は直進していたと思われる

直進した先に残る古い道標

文化12年(1815)の31丁石

これより先には丁切地蔵は見られない 池之尻から大興寺迄38丁

照蓮標石は徳島県に72基、高知県には5基を確認していますが香川県には観音寺市の3基以外は無かったと思います

真念標石と茂兵衛標石 是より遍路道は二筋あり直進する道と右に折れ丸亀(伊予)街道を経て植田天満宮経由で琴弾へと向かう道がある

植田天満宮内には伊予街道沿いにあったと思われる植田の松を示す2基の道標

予讃線を越えて川を渡り観音寺市街へと入る

「道の駅ことひき」の横に移設保管されている道標

光明寺前の道標 奥に見えるのは照蓮標石で現在は少し移動している

照蓮標石

三架橋を渡ると少し北にある興昌寺一夜庵を示す標石がある

琴引き公園内の老人憩の家前には移設された道標 元は三架橋を渡る手前に在った

琴弾神社への階段の途中の玉垣には「妙見道」と示されている

脇に丁石

階段を登り切った所には真念標石

四国遍禮名所図会の琴弾八幡(別当神恵院) 現在の68番札所は観音寺内にある

68番への道標MAP(カシミール3Dにて作成)































 

 

 

 

66番雲辺寺から67番小松尾寺(大興寺)へ②

粟井町奥谷から67番大興寺間の道標・丁石

白藤大師堂前には11丁石 粟井町内にはこの先、丁切地蔵が32丁まで続く

土佛庵(観音院)前の真念標石

この道標 元は少し手前の「67-66」の近くに在ったようです。県道から別れ右へと入る。

観音寺市新田町に入ると新たな丁石が始まり大興寺の1丁石迄続く

小さな峠を越える

道路工事で最初確認した時から少し移動している4丁石

道標と2丁石が並ぶ

大興寺へは名所図会にある雲辺寺道と示す所から入る。正面の手水脇に道標

大興寺の庫裡内には真念標石と外に道標1ヶが在るようだが確認していません

四国遍禮名所図会67番小松尾寺大興寺

MAP67-06(カシミール3Dにて作成)

MAP67-07

MAP67-08

MAP67-09

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66番雲辺寺から67番小松尾寺(大興寺)へ①

香川県内の遍路道については[香川県歴史の道調査報告書第六集の(1)へんろ道(六六番雲辺寺~八八番大窪寺)調査報告書 香川県教育委員会1991年4月発行]に詳しく述べられています。雲辺寺から大興寺迄の道筋の詳細は次の図書が参考になるかと思います。「讃岐遍路道 大興寺道 調査報告書(第66番札所雲辺寺から第67番大興寺間の遍路道)」観音寺市教育委員会 2019年3月発行

 

雲辺寺から大興寺迄の間には多くの丁切地蔵が残っていますがそれは3区間に分かれて丁石があり①雲辺寺の少し先から旧白藤大師堂跡(享保年間)1丁~32丁②旧白藤大師堂跡から粟井町内(文政年間)2丁~32丁③辻井町内の大興寺迄(設置年不明)9丁~1丁です。又、徳右衛門標石が2基、真念標石が2基残っています。

雲辺寺から粟井町奥谷間の道標・丁石

本堂から階段を下る途中の左に徳右衛門標石、右側に1丁石が有り、下りきった所には最近再建された仁王門があり近くには茂兵衛の標石

舗装された道を進むと左側に3丁石あるがこれはこの先の遍路道からの移設であろう 

やがて遍路道は舗装道路から別れ左の山道に入って行くが旧遍路道は直進していたようだ

この先は地蔵型の丁石が多く残っており移動しているものもあるが1丁から旧白藤大師堂跡の32丁石まで続く

3丁石は移設(67-04)と思われ4,5丁は未確認

8丁石は確認されていなく9丁石は見落としていたようだ

この先の遍路旧道は現在歩かれていなくて少し荒れた道であるが歩いてみた

14丁石は少し遍路道から離れているようで確認出来ていない

18丁は確認されていない

22、23丁は確認出来ていません

26丁も残っていたようだが未確認

29、30丁も確認してません

この先は旧白藤大師堂跡付近より舗装された道となり徳右衛門標石がある

新たな丁切地蔵が1丁は見当たらず2丁より続く

幾つか残る三好広太さんの里程標の一つ

道から少し離れている3丁石 文政13年(天保元年 1830年

遍路道は県道240号粟井観音寺線に入るが合流した所に10丁石と道標

MAP67-01(カシミール3Dにて作成)

MAP67-02

MAP67-03

MAP67-04

MAP67-05

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23丁石から旧白藤大師堂迄の旧遍路道は使用されていず通ることは出来るが少し荒れた道となっている。

 

 

 

 

 

大師堂跡付近には徳右衛門標石もある

 

この先は新たな丁石が残り粟井町と新田町の界迄丁石が続きこれも32丁石で終わる

 

 

そして是より小松尾迄9丁の道標があり丁数が減じて行く

 

 

 

 

65番三角寺から66番雲辺寺へ②(徳島県佐野から雲辺寺)

65番三角寺から66番雲辺寺間の道標・丁石②(徳島県佐野から雲辺寺迄)

石造物№は「阿波遍路道 雲辺寺道・大興寺道 調査報告書 2016年徳島県教育委員会」の番号です。

徳島県佐野から雲辺寺へは高低差660m程の登り道で地蔵型の丁石が多く残っています。先の雲辺寺迄一里の徳右衛門標石より200m程の右側旧道入口

すぐに左へ 道標と48丁石

高速道下を通るとやがて山道に入る。雲辺寺迄に多くの丁石が残る

歴史の道報告書には廿九丁とあるが卅九丁と考える

39丁石と道標は最初確認した時(2008年)より少し移動している

36丁も少し移動している

歴史の道報告書には廿八丁とあるが卅八丁と考える

記録では38丁、34丁石が在るようだが確認していない

尾根筋にに出ると曼陀峠方面からのへんろ道の舗装道路と出会い雲辺寺へ向かう

記録では17丁石が在ったようだが不明

2009年には少し手前(66-53)と同じ場所に在った11丁

12丁も移動

3基並ぶ

確認していないですが附近に箸蔵寺へと向かう道があるようです

7丁、8丁は並ぶ

3丁は2008年には仁王門脇に在った

大師堂裏に1丁石が

これは大野原方面からの雲辺寺道沿いに在った物か?

四国遍禮名所絵図の雲辺寺

MAP66-07(カシミール3Dにて作成)

MAP66-08

MAP66-09

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65番三角寺から66番雲辺寺へ①(徳島県佐野まで)

65番三角寺から66番雲辺寺間の道標・丁石①

四国遍路道指南

遍禮名所図会(一部抜粋)

 是より奥ノ院迄五拾八町なり 弁才天社のわきより行 三十丁余登る河の上町見ゆる

 大久保村 家少しあり 是より仙龍寺迄八町樹木生茂り高山岩端けはしき所を下る

 難所 筆紙に記しがたし〇庵 本尊不動尊を安置す 是より寺迄七丁壱町毎に標石有

 〇後藤玄鉄塚 道の右の上にあり 護摩道の左の下 釈迦嶽 右に見ゆる大成嶽なり 

 伽持水 道の右にあり 来迎滝 橋より拝す 蟹渕 橋の下の川をいふ也

 金光山仙龍寺 入口廊下庫裏 阿弥陀堂 仙人堂 岩に取付八丁の間を登る

 〇大久保村 是迄戻る 是より右へ行山道行〇半田村 領家村〇臺尾村

 椿堂 道の左にあり 根木尾村 此所より峠まで十丁 西伊予 東阿波 国境標木

 坂を下り 谷川渡り佐野村 谷川 清色寺 山の麓にあり 

 是より雲辺寺迄吾五拾町山坂なり 一生水 山中の庵 仏法石

 六拾番巨籠山千手院雲辺寺 三好郡白地村 小松尾迄二里半

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65番三角寺から66番雲辺寺へは直に雲辺寺へ向かうルートと奥之院経由で向かうルートがある。残された納経帳等を調べると半数以上の人は65番奥之院経由で雲辺寺へ向かっていたようです。

遍路道の道や石造物など詳細は愛媛県徳島県遍路道調査報告書に詳細に述べられており道筋の説明は報告書より引用しています。

 参考著書

  ①伊予の遍路道 平成14年愛媛県生涯学習センター

  ②徳島県歴史の道調査報告書第五集 遍路道 平成13年徳島県教育委員会

  ③阿波遍路道 雲辺寺道・大興寺道 調査報告書 2016年徳島県教育委員会

1)直接雲辺寺へ向かうルート

 三角寺境内の奥南口にある道標(81)

 刻字内容から三角寺の入口に在った物だろう

三角寺門前の商店(旧遍路宿)左脇の小道を下りた後、三角寺川の谷と並行して北に向かって下って行く。雨水の流路となっているようで道は深くえぐられ、山石が転がり小さな雑木が覆いかぶさって歩きにくい。谷道との交差点に立つ 道標(82)を過ぎ

(現在はほとんど利用されておらず車道を歩いたほうが良い)

市道と合流し金田町西金川に入ると、その三叉路にも小さな道標(83)

さらに三角寺川に沿って下り、三角寺口バス停所に至る。停留所を過ぎてさらに三角寺川沿いの小道 を下ると、東金川橋たもとの商店角に道標(84)がある。

江戸時代の遍路道はこの道標までは行かず、正善寺を過ぎたあたりで三角寺川•白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道 (笹ヶ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標(85)が立っている。

土佐街道は、江戸時代から明治・大正にかけて宇摩地方と土佐を結ぶ主要な幹線道路であり、土佐藩主山内氏の参勤交代道としても使われた。還路道はここからしばらく、土佐街道を進むことになる。東金川地区に入ると、東金川集会所西200mに道標(86)

さらに集会所すぐ西の三差発にも茂兵衛道標(87)が立っている。

茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地のこうぞ•みつまたなどの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる茜方のバス停留所前にも道標(88)が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である。

茂兵衡道標(87)の前を右折せずにまっすぐ通り遇ぎた遍路道は、徐々に法皇山脈を上っていったん県道川之江大豊線と合流した後、すぐ県道と分岐して平山に向かって上がる。この集落は法県山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かっては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋屋だったが、現在その跡地は畑になっている。遍路道土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上つて水ケ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する。この分岐点には、茂兵衛道標(89)と奥之院まで四十八丁を示した地蔵丁石が並んで立っている。

この地蔵丁石は、土佐街道の平山と堀切峠の区問が、奥之院へ行き帰りする遍路にとって遍路道の役割を果たしていたことを示したものである。残された納経帳から遍路の中には、三角寺参拝の後、法皇山脈を越えて三角寺奥之院 (仙龍寺)に参拝し、再び山脈を越えて平山まで下ってくる人も多かった。

平山の嶋屋跡を通過した遍路道は、ゆるい下り坂となり市道との合流・分岐を繰り返しながら、法皇山の山腹をぬって東に進む。平山を出たあたりに、地元の人によって歩き遍路のための休息所が作られている。さらに2基の道標(107)(108)を行き過ぎ、高知自動車道の高架下をくぐって川滝町領家入る。

古下田のはずれに2基の道標(109)(110)があり、

川滝町下山の椿堂まで進んで突き当たる所にも2基の道標(111)(112)

この椿堂地区の傾斜地に椿堂(常福寺)がある。入り口の看板下に上部のみ残る徳右衛門道標(113)が立ち、

境内には正岡子規など著名な俳人の句碑が数多く並んでいる。納経所の前に弘法大師の杖立て伝説にまつわる大きな椿の木が茂っており)、これが椿堂という呼称の由来となったといわれる。安政6年(1859)の火災で建物や椿の木も焼けたが、現在の椿はそ の焼けた株から芽を出したものだという。大師堂は急な坂道をはさんで納経所の反対側にあるが、境内を二つに区切るこの坂道はもとの阿波街道であり、ここで遍路道は阿波街道と合流する。坂道の上り際には「椿堂遍んろ道通りぬけ」の道標(114)

阿波街道と合流した遍路道椿堂から北に下り、茂兵衛道標 (116)が立つ三差路を右折する。

その後、国道192号との合流と分岐を何度か繰り返しながら、しだいに金生川上流域へとさかのぼっていく。この道は阿波に向かう古くからの主要道であり、昭和47年には、全長850mの境目トンネルが開通して距離が短縮された。金生川沿いの平野部東端に七田地区がある。道はここから急峻な山地に入って行く。この七田で遍路道は二手に分かれる。一つはこのまま阿波街道を進み、泉中尾の集落を経て徳島県池田町の佐野に入り、ここから雲辺寺に上る道であり、これは澄禅・真念の書物にも記されたルー卜である。もう一つは、それ以降に開発されたと考えられる遍路道であり、それは、七田集会所の手前から讃岐山脈に続く山並みに直接入ってそのまま山伝いに雲辺寺に向かうルートである。前者の遍路道をとる場合は、3基の道標(117)(118)(119)を行き過ぎ

七田を抜け、九十九折りの山道を泉中尾に向けて上がる。上がりきった地点の民家脇で市道と合流する。この合流点にもかって道標が立っていたが、傍らの電柱の取り替え工事の際に行方不明になってしまったという。記録によると、その道標には正面に大師像と手印及び「此方遍んろ道」という文字が刻まれ、右面には「文政十一年十一月」、左面には「願主  江戸本所産  徳次郎」とあったということである。
市道と合流した遍路道は、愛媛県岐東端の泉中尾の集落を通過し、境目峠の切通しを経て徳島県池田町に入る。この県境を通過する道は江戸時代には今より少し南の高い所を通っていて古道の痕跡が残っている。この旧境目峠の小祠内には徳右衛門標石がある

次に後者の遍路道をたどると、七田集会所前の道を少し登った左に道標(120)が有り北東方面に上って行き曼陀トンネル上の四国の道に入り前者の道を通り佐野から登ってきた道と合流する。この道筋にも幾つかの道標・丁石が残っているようだが私は歩いていなのでここでは省略します。

明治時代に出来た現在の境目峠にある里程標(大正6年)是より徳島県へ入る

境目峠のすぐ先の道標(明治34年)附近からも曼陀峠越えで雲辺寺へ行くことが出来る

境目峠からの下りは現在の道より下の谷川近くを通ってたと思われる。道を下って行くと、この先、池田より南へ祖谷渓近くの中津山への道筋を示す明治16年の道標がある

国道を横切り徳島の伊予街道を進み佐野の集落に入る。佐野神社の東で街道と別れて雲辺寺に向かう。分岐には道標が有ったが現在は見当たらない。分岐の少し先には徳右衛門標石(雲辺寺へ1里)があり是より雲辺寺への登り道となる。

MAP66-01(カシミール3Dにて作成)

MAP66-02

MAP66-03

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MAP66-05

MAP66-06

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64番前神寺から65番三角寺へ③(三島から三角寺迄)

64番前神寺から65番三角寺間の道標・丁石③

三島から三角寺

石床大師堂からは三角寺迄の丁数を示した道標が多く残る

国道319号線を渡った先の舟型地蔵の道標 「三角寺 42丁」

すぐ先の十字路に2基の道標

次の十字路の道標(天明8年) 下部埋没

国道横の道標(天明8年)

すぐ横の舟型地蔵道標(文化3年) 「三角寺へ37丁」

中曽根小学校内に保管されている道標

近くの遍路道に在った物

三角寺へ40丁(文化12年)の道標

現在、道標のあった所は駐車場が出来ており失われている

何処かに保管されて居たら良いのだけども

民家のブロック塀の間に茂兵衛道標(大正3年

秋則からは一部道が消滅しているが南東方面へ向かう

左側の空き地には茂兵衛道標(明治38年

すぐ先に3基並ぶ道標 附近より集められたもの 「三角寺 3?丁」

文化14年の道標

二股の道を左に進む 地蔵台石の道標 「三角寺へ35丁」

りっぱな道標が続く 「三角寺へ34丁(文化5年)」

三角寺へ33丁(文政8年)

これより右に向かう 「三角寺迄32丁(文化15年)」

民家前に2基の道標 「三角寺へ?丁(寛政3年)」

松山自動車道下をくぐった突き当りの道標(安政3年)

三角寺へ30丁(安政3年)

墓地前にある真念標石

墓地を通った先の茂兵衛道標(明治31年

三角寺22丁(元治元年)

川之江方面からの遍路道にある道標

山上集会所には3基の道標、丁石が保管されている

三角寺 19丁」

三角寺迄18丁(元文4年)

奥之院迄76丁(天保14年)

右へ進む(万延2年の道標)

附近の遍路道ははっきりせず69-096、097は川之江方面からの遍路道かもしれない

三角寺 14丁」

道は山道になり 「三角寺迄12丁(嘉永5年)」

10丁石

同様の丁石は、この先9丁、1丁が確認出来る

九丁石

川之江村松大師堂からの道が付近で合流(明治21年

三角寺 5丁(文久3年)

最初に確認した時は倒れていた(大正15年)

三角寺 6丁(弘化3年)

少し広い道に出て 「三角寺 4丁(文政7年)」

三角寺登り階段途中に1丁石

MAP65-11(カシミール3Dにて作成)

MAP65-12

MAP65-13

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