四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

65番三角寺から66番雲辺寺へ①(徳島県佐野まで)

65番三角寺から66番雲辺寺間の道標・丁石①

四国遍路道指南

遍禮名所図会(一部抜粋)

 是より奥ノ院迄五拾八町なり 弁才天社のわきより行 三十丁余登る河の上町見ゆる

 大久保村 家少しあり 是より仙龍寺迄八町樹木生茂り高山岩端けはしき所を下る

 難所 筆紙に記しがたし〇庵 本尊不動尊を安置す 是より寺迄七丁壱町毎に標石有

 〇後藤玄鉄塚 道の右の上にあり 護摩道の左の下 釈迦嶽 右に見ゆる大成嶽なり 

 伽持水 道の右にあり 来迎滝 橋より拝す 蟹渕 橋の下の川をいふ也

 金光山仙龍寺 入口廊下庫裏 阿弥陀堂 仙人堂 岩に取付八丁の間を登る

 〇大久保村 是迄戻る 是より右へ行山道行〇半田村 領家村〇臺尾村

 椿堂 道の左にあり 根木尾村 此所より峠まで十丁 西伊予 東阿波 国境標木

 坂を下り 谷川渡り佐野村 谷川 清色寺 山の麓にあり 

 是より雲辺寺迄吾五拾町山坂なり 一生水 山中の庵 仏法石

 六拾番巨籠山千手院雲辺寺 三好郡白地村 小松尾迄二里半

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65番三角寺から66番雲辺寺へは直に雲辺寺へ向かうルートと奥之院経由で向かうルートがある。残された納経帳等を調べると半数以上の人は65番奥之院経由で雲辺寺へ向かっていたようです。

遍路道の道や石造物など詳細は愛媛県徳島県遍路道調査報告書に詳細に述べられており道筋の説明は報告書より引用しています。

 参考著書

  ①伊予の遍路道 平成14年愛媛県生涯学習センター

  ②徳島県歴史の道調査報告書第五集 遍路道 平成13年徳島県教育委員会

  ③阿波遍路道 雲辺寺道・大興寺道 調査報告書 2016年徳島県教育委員会

1)直接雲辺寺へ向かうルート

 三角寺境内の奥南口にある道標(81)

 刻字内容から三角寺の入口に在った物だろう

三角寺門前の商店(旧遍路宿)左脇の小道を下りた後、三角寺川の谷と並行して北に向かって下って行く。雨水の流路となっているようで道は深くえぐられ、山石が転がり小さな雑木が覆いかぶさって歩きにくい。谷道との交差点に立つ 道標(82)を過ぎ

(現在はほとんど利用されておらず車道を歩いたほうが良い)

市道と合流し金田町西金川に入ると、その三叉路にも小さな道標(83)

さらに三角寺川に沿って下り、三角寺口バス停所に至る。停留所を過ぎてさらに三角寺川沿いの小道 を下ると、東金川橋たもとの商店角に道標(84)がある。

江戸時代の遍路道はこの道標までは行かず、正善寺を過ぎたあたりで三角寺川•白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道 (笹ヶ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標(85)が立っている。

土佐街道は、江戸時代から明治・大正にかけて宇摩地方と土佐を結ぶ主要な幹線道路であり、土佐藩主山内氏の参勤交代道としても使われた。還路道はここからしばらく、土佐街道を進むことになる。東金川地区に入ると、東金川集会所西200mに道標(86)

さらに集会所すぐ西の三差発にも茂兵衛道標(87)が立っている。

茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地のこうぞ•みつまたなどの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる茜方のバス停留所前にも道標(88)が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である。

茂兵衡道標(87)の前を右折せずにまっすぐ通り遇ぎた遍路道は、徐々に法皇山脈を上っていったん県道川之江大豊線と合流した後、すぐ県道と分岐して平山に向かって上がる。この集落は法県山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かっては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋屋だったが、現在その跡地は畑になっている。遍路道土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上つて水ケ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する。この分岐点には、茂兵衛道標(89)と奥之院まで四十八丁を示した地蔵丁石が並んで立っている。

この地蔵丁石は、土佐街道の平山と堀切峠の区問が、奥之院へ行き帰りする遍路にとって遍路道の役割を果たしていたことを示したものである。残された納経帳から遍路の中には、三角寺参拝の後、法皇山脈を越えて三角寺奥之院 (仙龍寺)に参拝し、再び山脈を越えて平山まで下ってくる人も多かった。

平山の嶋屋跡を通過した遍路道は、ゆるい下り坂となり市道との合流・分岐を繰り返しながら、法皇山の山腹をぬって東に進む。平山を出たあたりに、地元の人によって歩き遍路のための休息所が作られている。さらに2基の道標(107)(108)を行き過ぎ、高知自動車道の高架下をくぐって川滝町領家入る。

古下田のはずれに2基の道標(109)(110)があり、

川滝町下山の椿堂まで進んで突き当たる所にも2基の道標(111)(112)

この椿堂地区の傾斜地に椿堂(常福寺)がある。入り口の看板下に上部のみ残る徳右衛門道標(113)が立ち、

境内には正岡子規など著名な俳人の句碑が数多く並んでいる。納経所の前に弘法大師の杖立て伝説にまつわる大きな椿の木が茂っており)、これが椿堂という呼称の由来となったといわれる。安政6年(1859)の火災で建物や椿の木も焼けたが、現在の椿はそ の焼けた株から芽を出したものだという。大師堂は急な坂道をはさんで納経所の反対側にあるが、境内を二つに区切るこの坂道はもとの阿波街道であり、ここで遍路道は阿波街道と合流する。坂道の上り際には「椿堂遍んろ道通りぬけ」の道標(114)

阿波街道と合流した遍路道椿堂から北に下り、茂兵衛道標 (116)が立つ三差路を右折する。

その後、国道192号との合流と分岐を何度か繰り返しながら、しだいに金生川上流域へとさかのぼっていく。この道は阿波に向かう古くからの主要道であり、昭和47年には、全長850mの境目トンネルが開通して距離が短縮された。金生川沿いの平野部東端に七田地区がある。道はここから急峻な山地に入って行く。この七田で遍路道は二手に分かれる。一つはこのまま阿波街道を進み、泉中尾の集落を経て徳島県池田町の佐野に入り、ここから雲辺寺に上る道であり、これは澄禅・真念の書物にも記されたルー卜である。もう一つは、それ以降に開発されたと考えられる遍路道であり、それは、七田集会所の手前から讃岐山脈に続く山並みに直接入ってそのまま山伝いに雲辺寺に向かうルートである。前者の遍路道をとる場合は、3基の道標(117)(118)(119)を行き過ぎ

七田を抜け、九十九折りの山道を泉中尾に向けて上がる。上がりきった地点の民家脇で市道と合流する。この合流点にもかって道標が立っていたが、傍らの電柱の取り替え工事の際に行方不明になってしまったという。記録によると、その道標には正面に大師像と手印及び「此方遍んろ道」という文字が刻まれ、右面には「文政十一年十一月」、左面には「願主  江戸本所産  徳次郎」とあったということである。
市道と合流した遍路道は、愛媛県岐東端の泉中尾の集落を通過し、境目峠の切通しを経て徳島県池田町に入る。この県境を通過する道は江戸時代には今より少し南の高い所を通っていて古道の痕跡が残っている。この旧境目峠の小祠内には徳右衛門標石がある

次に後者の遍路道をたどると、七田集会所前の道を少し登った左に道標(120)が有り北東方面に上って行き曼陀トンネル上の四国の道に入り前者の道を通り佐野から登ってきた道と合流する。この道筋にも幾つかの道標・丁石が残っているようだが私は歩いていなのでここでは省略します。

明治時代に出来た現在の境目峠にある里程標(大正6年)是より徳島県へ入る

境目峠のすぐ先の道標(明治34年)附近からも曼陀峠越えで雲辺寺へ行くことが出来る

境目峠からの下りは現在の道より下の谷川近くを通ってたと思われる。道を下って行くと、この先、池田より南へ祖谷渓近くの中津山への道筋を示す明治16年の道標がある

国道を横切り徳島の伊予街道を進み佐野の集落に入る。佐野神社の東で街道と別れて雲辺寺に向かう。分岐には道標が有ったが現在は見当たらない。分岐の少し先には徳右衛門標石(雲辺寺へ1里)があり是より雲辺寺への登り道となる。

MAP66-01(カシミール3Dにて作成)

MAP66-02

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MAP66-06

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