現在の道を歩くと9km程の距離です。
UPしている写真は少し以前撮影したもので現在は少し変わっているかもしれません。
大日寺からは来た道を戻る。下り階段途中に徳右衛門標石
坂を下った所はバス専用の駐車場で入口には前回紹介した大日寺への道標
父養寺(ぶようじ)の十字路に倒れている自然石の道標
父養寺から県道234線に出て北へ行き、水路脇アのジサイの袂に置かれている
安永6年(1777)の道標
この先の旧道は消滅していています。物部川近くには「是遍路」と記す天明5年の標石があり
この附近で川を渡っていたようです
物部川は安永年間の道中日記にはかち渡りと書かれていて歩いて渡っていたが寛政年間には渡船が有った。現在は戸坂島橋を渡る。橋を渡った先左には
橋の少し下流に在ったと思われる渡場付近の堤防道路の斜面には、今は人目に触れる事のない道標
戸坂島の出口曲がり角には宝暦14年(1764)の道標
これより西へ進む
次に300m程の立石公民館横に
西へ進み土佐山田町松本の小川を渡った先には上部欠損の真念標石
次に60m程、左に曲がる所に明和6年(1769)の道標
次に右に折れる所にも真念標石
松本大師堂前を通ると田畑が広がり左に折れる所に2基の道標
道なりに進み左に曲がる所に明治時代の道標、以前は道の向かいに有った。
刻字に周防国大嶋郡とあり中務茂兵衛と何らかの関係がある人なのかも知れません。
これより左へ町道を進んで行きJR土讃線の手前水路脇には2基の道標
この先の道はは少し北に踏切が有、迂回して進む。遍路道はこの先の県道45号線を右に折れるのですが此処に2基の道標、写真左側に頭だけ見える道標は掘り出されて右の道標と並んで置かれている模様です。
北に進み遍路石の地名が残る所には中務茂兵衛の道標(縦に割れている)
遍路石交差点を左へ曲がり50m程で右に細い路地があり入口に元文3年(1738)の道標
この先、農道を通り再び県道へ出る道が有りこれが古い遍路道と思われる。
廿枝(はたえだ)付近の旧道は消滅していて西島園芸団地の西側を通っていたと思われる。今の遍路道で国分川を渡った先に中務茂兵衛の道標
国分寺の手前に
29番札所国分寺
国分寺境内には国分寺を示す道標が有るようだが確認出来なかった。
境内には他に2基道標が有ります。これは次回紹介します。
MAP29-1(カシミール3Dにて作成)
MAP29-2
MAP29-3
MAP29-4
(=^・^=)END