43番明石寺から44番菅生山(大宝寺)間の道標・丁石 2/2
現在の遍路道を歩くと
内子町から大瀬迄 9km
大瀬から中田渡迄 10km
中田渡から二名迄 11km
二名から大宝寺迄 6.5km
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内子町の街道沿い右手にある「内子・歴史民俗資料館 商いと暮らし博物館」
裏庭には2つの道標が保管されている。
ひとつは元禄2年(1689年)の古い道標で元は水戸の森峠への道に有ったとされる
もう一つは中務茂兵衛の道標で横倒しで置いてあり下面は未確認(明治41年)215度目
内子からの道筋で四国遍路道指南では次のように書かれている
「〇うちの子村、町、左は大道右ハ遍路道 過て川わたり千せ坂〇むらさき村、此間中戸坂〇五百木村〇大瀬村」
千せ坂(知清坂)中戸坂(中土坂)とあることから古い時代には現在の水戸の森峠を通る小田川の北を通るルートではなく小田川南のルートで知清、中土集落付近を通ったと思われる。愛媛県歴史文化博物館のデジタルアーカイブで公開されている「大洲藩領絵図」にそのルートが示されている
内子町の伊予銀行の所より左に向かい四国の道の古い町並みの残るゆるい坂(内子坂)を上って行くと高昌寺への分岐に常夜燈と道標
この先に福岡大師堂跡があり遍路道と松山大洲街道の分岐には
元禄11年(1698)の道標
次に水戸森峠途中には現在歴史民俗資料館に保管されている道標が有ったようだ
峠を下ると石浦大師堂が有りそこに徳右衛門標石 「菅生山迄8里」
大瀬成屋にも徳右衛門標石 「菅生山迄7里」
少し先で国道379号線沿いに進む
県道241号線の分岐付近の「へんろみち」の道標は無くなっている
次に800m程北にある曽我五郎十郎首塚を示す道標が有るようだが確認出来なかった
大瀬石積には讃岐の人の墓を案内する道標
次に徳右衛門標石 「菅生山迄6里」
田渡川を渡った先の三叉路の道標 左は遍路道(本道)で右は真弓峠越えの遍路道
しばらく国道を進みやがて中田渡の旧道へ入ると新田神社前は
徳右衛門標石 「菅生山迄4里」
再び国道に入る手前に
上田渡の慶応3年の道標(1867)右は遍路道 左は長浜
落合の大師堂付近にはいくつかの道標が有ったが今は1つしか見当たらない
最初に通った時(1998年)は自然石に手印の道標が有ったが後に行った時(2008年)には見当たらなかった
大師堂の前を右へ古い橋を渡り少し行き倉谷には徳右衛門標石 「菅生山迄3里」 1998年の写真
2008年の写真
遍路道は県道から左へ別れる
次に二つに折れている徳右衛門標石 「菅生山より2里」
寛政9年(1797)
やがて山道に入り天明7年(1787)の道標
下坂場峠を下ると県道となりに少し行くと遍路道は左へ(嘉永元年)
二名川を渡る付近の旧道は消滅しておりの今の道の少し北の旧遍路道にある大師堂前には3ケの道標
すぐ近くに(昭和3年)
鴇田峠(ひわだ峠)の手前の徳右衛門標石(寛政9年) 「菅生山より1里」
鴇田峠にある道標(嘉永4年)
峠の下り道には「菅生山へ22丁」の道標が有るようだが見過ごしたようだ
久万高原町に入り松山(土佐)街道でに出る。遍路道は左に折れる(嘉永5年)
次に遍路道は街道から右に折れる所に弘化5年の道標(1848)
総門橋を過ぎ総門を通る。次に中之橋の袂には2ケの道標が有ったが今は道路改修で様子が変わり一つだけ残る
二つに折れて置いてあった道標 現在どこにあるか不明
2021年の中之橋付近の写真
みやげ物屋の先には大宝寺のミニ西国三十三ヶ所を示す道標(明治37年)
勅使橋を渡り遍路道は車道から別れて坂道を登る
登り坂の途中に
寺下の車道沿いに
四国遍礼名所図会より
MAP44-09(カシミール3Dにて作成)
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END(=^・^=)