四国遍路道の道標・丁石

四国八十八所の遍路道にある道標、丁石を紹介します

53番円明寺から54番延命寺へ②

53番円明寺から54番延命寺間の道標・丁石 2/2

四国遍禮名所図会

 (名所図会では52番円明寺から岩国、宮島、大三島と廻り

  四国に戻り54番延命寺へと向かう)

 一部抜粋

 五十五番三嶋社祭神 大山積大明神

  末社〇神楽殿〇大鳥居 石の鳥居なり 社家神主大堀大部

  ・・・・ 月光山神宮寺 社の左の山の側にあり 大師堂 此所より納経出る

  町此所にて休足いたし五ツ時小船を出し 鶴嶋 左手見ゆるしまなり 楠嶋 左手にあり         みたらひ八ツ時に迷田の濱に着する此所より上り迷田村

  是より圓明寺迄弐里 大井村 新町 町有 縣村 松山より十里塚有

 五拾四番近見山不動院延命寺 和気郡縣村 海道より左の山路へいる 別宮迄一り

 (迷田村は逆田と思われ距離からしても現在の佐方だろう)

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窓坂を越へてみかん畑を下って行くやがて道の右側の少し高台の小祠内に

この先、遍路道は東北方面へ進むが途中で旧道はゴルフ場となり消滅している

ゴルフ場の先の旧道にはゴルフ場の敷地に在った里程標が移設されている

松山より6里

菊間町に入り今治市役所菊間支所の片隅には里程標が置かれている

下部が埋まっているが松山より7里

元は1km少し先今は通らない街道沿いに在った

菊間の町の南側、国道から海側に少し入った不動堂の登り入口に置かれている道標

中務茂兵衛(明治21年

遍照院内には2基の道標

ひとつは中務茂兵衛道標(明治25年

境内西北にある下部が埋まっている道標

菊間町内の道標1(中務茂兵衛 明治25年

菊間町内の道標2(中務茂兵衛 明治25年

菊間川を渡り国道と合流して少し行き八幡前バス停横に道標が2基

明治時代の地図を見ると旧道はもう少し西側で分岐が在りそこに

有った道標が移設されたものだと思われる

これより右へ上って行く道が街道であるが海側にも道があり

こちらが遍路道だったのかもしれない

今は通らないがこれより右に行き少しの坂道が今治街道

そこに先の松山から7里の里程石が在ったようだ

やがて遍路道は石油製油所となり消滅し通れなくなっている

製油所手前には中務茂兵衛道標(明治25年

国道を通り400m程進むと左の道へ入る

すぐに青木地蔵堂等があり附近に道標2基

立場坂は国道となりこれを下りやがて国道から別れ右へ

旧道に入り種川を渡った先出雲大社越智教会前に少しの石造物があり

その中に下部欠損の道標も含まれる

今治市立亀岡小学校敷地内に里程標と道標2基

里程標は 松山より8里

これはこの先1km程先の高城付近に有ったようだ

道標が2基

佐方橋の傍らの道標

尚いくつかの道中日記で宮島方面から四国に入る場所で「佐嘉浦」「さかた村」「佐賀田町」などという地名が出てくるがおそらく佐方の事だろう

佐方の集落の北の分岐にある中務茂兵衛道標(大正2年

遍路道は真っすぐ進む

高城集落の中務茂兵衛道標(大正5年)

徳右衛門標石を再利用されたものと思われる

現在見当たらなくなってる

大西町脇の十字路

一字一石等の横に中務茂兵衛道標(明治27年

予讃線の踏切を渡った先の宮脇川脇に道標、里程石が集められている

徳右衛門標石 延命寺へ1里

大西町新町の道が右に折れる所にある道標(文政5年)

新町より少し先に在った道標は現在 

遍路道より南、山麓にある安養寺前に置かれている(弘化4年)

今治延喜郵便局横には石造物集められている

右奥にある墓碑型道標 圓明寺(延命寺へ8丁)延喜観音経由の道も示す

延喜観音3丁と示すから少し北に在った物だろう

この道標は最初観た時より少し移動し3丁の文字が埋まっている

右横の道標

附近の西国33所を示すものだろうか

次に450m程で遍路道今治街道から別れ左へ

少し進んだ先に2基の道標

延命寺のバス用駐車場入り口の中務茂兵衛歌碑道標(大正4年

溜池の横を通り寺入口にある道標1

寺入口にある道標2(天保12年)

山門をくぐり54番延命寺

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53番円明寺から54番延命寺へ①窓坂迄

53番円明寺から54番延命寺間の道標・丁石 1/2

四国遍路道指南

四国順拝道中記山口県文書館 WEB公開 文政5年)より抜粋

 五十三番円明寺 此次へ九里八丁 堀江村通りあわい坂大師堂あり 

 柳原村 北條町 町中に川有 過てあさなミ村 番所有 切手あらたむ

 大井村過て濱道也 風景宜 二見の海とも可謂所也 此次ニ瓦焼見物 

 夫よりあげ坂とて小坂あり キクマ村江三り 村はつれに小川あり、

 山道を少し行濱道ニ出る過ぎて立場坂、此坂をとおらす下ニ沖江出道あり

 たね村 此所ハ百姓や五六間あり、此村の氏神沖ひね明神参詣少し行て小川あり

 過て壱弍軒茶屋あり 夫よりさがたむら、大井村杯小村あり過て

 新町よりしき町也 夫より今わら村、田久間村、ゑき村 あがた村

第五十四番 △延命寺

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円明寺前の道標(明治16年

船で宮島を経由して54番へ向かう遍路も多くいた

四国遍禮名所図会でも岩国、宮島経由で54番に向かっている

円明寺境内右 不動明王脇の道標

馬木町にある道標(文久3年)

へんろみちの刻字の下に馬木、台石に村と刻まれている

遍路橋を渡った先にある道標

遍路道は左へ向かう

次に70m程行くと右側に

この先の旧遍路道予讃線で消滅し通ることが出来ない。迂回する

再び旧道に入り小さな川を渡った先、道路に埋もれた道標

民家の庭に保存されている松山札の辻からの里程標(松山より2里)

宮島への舟のりばを示す道標(中務茂兵衛標石明治19年

現在建物が取り壊され工事中である。

今後、道標が無くならないか心配である

この先は海沿いの旧国道を進む。

やがて粟井坂にかかるのだが今は通ることが出来ない。

旧国道をそのまま進むと右側に粟井大師堂がありその横に山道を登る道があるが

れが粟井坂で松山側に登って行くと関所跡など開けた場所があり

郡堺碑等が残っている

郡堺碑はレプリカも設置してある

道標(享和3年)

粟井坂より北側に下り先の粟井坂大師堂に出ることが出来るが

下った先にある道標

粟井坂を下った所の大師堂は粟井坂の途中より移設されたようで

風早郡四国八十八箇所の第38番を示す標石、道標等も移設されている

金毘羅大門からの里程標も置かれている(金毘羅迄34里)

しばらくは旧国道だった県道347号線を北条迄北上する

途中に幾つかの道標が残る

伊予鉄バス停和田横の徳右衛門標石

延命寺迄7里7丁と半端な表記で徳右衛門さん和田村とは

何か特別なつながりがあったのだろうか

粟井橋バス停脇 蓮福寺北角の道標(大正8年

高野山とは粟井坂の大師堂を示しているようだ

次に450m程進み鹿峰の理髪店横の里程標 「松山より三里」

道路の反対側少し北には徳右衛門標石

札所ではなく菊間の遍照院を示している

これも距離表記が半端な数字である

付近の徳右衛門標石はすべて半端な距離を示している

新開を過ぎ県道から別れ左へ少し先に赤く塗られた地蔵が在りその後ろに

中務茂兵衛の初期の標石(明治19年

北条鹿島前バス停脇横には2基の道標

北条辻の道がクランク状となる所には3つの道標が集められている

ひとつは松山よりの里程標(松山より4里)

徳右衛門標石と花へんろ町と追刻されている道標

道の向かい側の道標(明治5年)

北条の旧道沿いにある道標

北条の北にある道標(明治33年)

予讃線の踏切を渡った先の分岐にある道標

是より遍路道は右へ

この分岐 昔の遍路道は右の道を進む(大正元年

この先坂道となるが坂の麓にある鎌大師内に道標

鴻之坂登りにある中務茂兵衛の道標(明治45年)

坂の下りにある中務茂兵衛の道標(大正4年

浅海原の番所跡にある徳右衛門標石

番所跡から800m程で旧遍路道は右へ窓坂峠を越えていくが

ほとんどの遍路人は国道を進むようです

旧道を右へ少し行った所は2基の道標が置かれている

中務茂兵衛道標(明治26年)と

上部欠損の道標

やがて窓坂へと向かうが峠に有った郡堺碑が移設されている

この先窓坂峠は少しの山道となるが概ね通ることが出来ました

MAP54-01(カシミール3Dにて作成)

MAP54-02

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MAP54-04

MAP54-05

MAP54-06

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52番太山寺から53番円明寺へ

52番太山寺から53番円明寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 これより円明寺へ十八丁 

四国遍禮名所図会

 是より太山寺村の茶屋に戻りて荷物を請取行 次迄十八丁

 和気濱村

 五十三番須賀山正智院圓明寺 和気郡和気濱村 延命へ直道九り

現在歩くと3km程の道のりです

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太山寺への入口石段前の徳右衛門標石(円明寺迄18丁)

来た道を戻る。

片廻の県道沿いにある道標 近くより移設されたようだ

以前は川向いの和気小学校前に在った道標(円明寺へ5丁)

円明寺駐車場には付近より移設された道標 

53番円明寺

四国遍禮名所図会より

MAP53-01



51番石手寺から52番太山寺へ

 

51番石手寺から52番太山寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 是より大山寺迄二里・・・〇道後湯・・・・松山城下へこれよりひだりへ行、三津のはまへ一里、松山によらぬときハ、道後より〇山越村、是ハ、道後より右への道・・・・

〇たに村・・・〇あんじやうじ村〇太山寺村、爰に太山寺の惣門有 是より本堂まで八丁 ふもとに茶屋あり 

四国遍禮名所図会

 門前茶屋にて 是より義安寺道ノ右にあり 

 本尊薬師如来 地中より出現 是より道後入口家也 

 湯月八幡社・・・・・道後温泉・・・・・・道後町放れより山越村

 萬松山龍泰往来の右にあり

 本堂 五百羅漢本堂安置ス御長壱尺余 

 谷村 室岡山薬師堂 右の方あり

 安常寺村 大山寺村 此所茶屋あり支度いたし荷物置き是へ戻る

 弁財天社左手あり 惣門

 五拾二番瀧雲山護持院太山寺 泉村大山寺村 山へ少し上る 円明寺迄十八丁

現在石手寺から歩くと11km程の道のりです

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石手寺の少し南に移動している道標

石手寺門前には徳右衛門標石(太山寺迄2里)

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寺前を西に300m程 中務茂兵衛の標石(明治24年

左へ行くと松山市街に向かう

真っすぐは道後を経由する遍路道

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義安寺の西側入口の道標(文政4年)

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道後温泉の椿湯の角にある道標(明治41年

以前は椿湯の内庭に置かれていた

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少し北の旧遍路道より移設された道標

現在は建物の工事で撤去され見当たらなくなっている

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現在、愛媛県歴史文化博物館に展示されている道標(明治21年

元は道後上市に有った

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県道20号線を横切った先にある道標

手差しの形はこのように指差しと開いた手差しで表している道標が多い

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護国神社鳥居前の 中務茂兵衛の道標(明治26年

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T字路に立つ2ヶの道標(明治21年

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大正9年の道標

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笠のついた立派な道標 2面には多くの人名が書かれている

南へ向かうと松山城

遍路道国道196号線の交差点の道標(元禄12年)

裏面に刻字があり元は裏面が正面であったようです

遍路道はこれより北へ向かう

還熊八幡神社を示す道標

しばらく国道を歩くことになるが道は改修されて旧街道の面影はない

国道から右へ別れた先四辻の所に中務茂兵衛の標石(明治21年

川沿いに西へ向かう

川に沿って道なりに北へ進むと遍路道は土手道を下り左へと向かう

分岐には2基の道標

1基は太山寺へ27丁と示す

この先には同様の舟型地蔵道標が幾つか残る

安城寺にある太山寺へ22丁の道標

太山寺への別ルートの中務茂兵衛標石(明治21年

安城寺集落の北にある中務茂兵衛の標石(明治21年

橋の袂にある道標(太山寺へ17丁)

この先道筋は2筋あり
北側を通る道筋近くの大淵集落に倒れて置かれている道標

大淵の道標(嘉永5年)

500m程西へ向かうと太山寺から53番円明寺へ向かう道の分岐となるが
ここに道標が在ったが現在は山沿いの道の溜池沿いに移設されている

移動している道標

山沿いの道の道標

山沿いの道の出口にある道標(嘉永6年)

太山寺一の門前に2基の道標

左へ行くと三津浜でこの先54番円明寺へ行って戻り三津浜に向かいそれより

船で安芸の宮島厳島神社)経由で55番延命寺へ向かう遍路もいた

山門を過ぎ太山寺駐車場入り口脇の道標

急な坂道を上って行くと高浜港から登ってきた道との合流点にある道標

坂道の突き当り奥には移設された道標(太山寺へ42丁)

52番太山寺

MAP52-01 (カシミール3Dにて作成)

MAP52-02

MAP52-03

MAP52-04

MAP52-05

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50番繁多寺から51番石手寺へ

50番繁多寺から51番石手寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 石手迄廿五町 〇げば町〇石手村 

四国遍禮名所図会

 是より石手まで弐拾丁也 けば町 石手村 川原行

 五拾一番熊野山石手寺 温泉郡石手村 太山寺迄一里

現在歩くと2.8km程の道のりです

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繁多寺山門前の道標 慶応元年(1865年)

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桑原八幡を過ぎ畑寺交差点の北東にある道標

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県道40号線を北上 東雲女子大入口交差点の道標

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県道脇にある道標

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墓地脇にある道標(昭和12年

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嘉永7年(1854年)の道標

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是より県道より別れ西へ行く道も遍路道ですぐの所にに上部が欠けた道標がある

この道は少し先で県道に合流する

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遍路橋を渡るとすぐに石手寺である寺手前には地蔵堂があり脇に道標

元は石手寺前に有った

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51番石手寺 四国遍禮名所図会より

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MAP51-01 カシミール3Dにて作成

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MAP51-02

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48番西林寺から49番浄土寺へ

 

48番西林寺から49番浄土寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 これより浄土寺まで廿五町 此間〇土居村

 小川ニ瀬 

四国遍禮名所図会

 浄土寺迄廿五丁

 門前へ出 土井村 粂の町 高の子村

 四十九番西林山三蔵院浄土寺 粂郡高の子村 繁多寺迄十五丁

現在歩くと西林寺寺から浄土寺迄3.2kmの距離

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西林寺門前に徳右衛門標石

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県道へ出て北へ100m程で遍路道は左へ向かうが交差点手前の民家脇には

折れて置いてある道標

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次に二つ並ぶ道標があるが

現在はレプリカが置いてあるようです

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久米小学校横の小祠内にはニケの道標

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遍路道は突き当たりを右へ

各所への道のりが示されている道標(文久2年 1862年

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突き当りを左へ50m程の所には金毘羅への里程標(文化10年 1813年)

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遍路道はすぐに左へ折れる(嘉永2年 1849年)

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500m程で49番浄土寺 

四国遍禮名所図会よりf:id:hyamatyan:20220406233741j:plain

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MAP49-01 カシミール3Dにて作成

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MP49-02

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49番浄土寺から50番繁多寺へ

49番浄土寺から50番繁多寺間の道標・丁石

四国遍路道指南

 是よりばんたじ迄十五町 少ゆき八幡の宮、しんたて町過右へしるし石有

四国遍禮名所図会

 繁多寺迄十五町

 門前より西へ行く粂の町 八幡宮 右手ニあり 大社なり 幡寺村

   五拾番東山瑠璃光院繁多寺 温泉郡幡寺村 石手寺迄廿丁

浄土寺から繁多寺迄歩いて1.7km程の道のりです

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浄土寺の山門前に前後の札所を示す道標(明治45年 1912年)

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浄土寺前には徳右衛門標石

繁多寺迄18丁と示す。各種案内記では15町(丁)とあるのだが

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西へ少し行くと日尾八幡があり

その前にある道標(嘉永7年 1854年

愛媛には正逆の遍路道を示す道標が多くみられる

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県道40号線をしばらく進み遍路道は右へ

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分かれ道のレプリカの道標 遍路道は少し登り道

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800m程で50番繁多寺

四国遍禮名所図会より

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MAP50 カシミール3Dにて作成

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