この道筋の一部は(阿波遍路道 いわや道)として国指定の史跡となっています。
この道の始まりは太龍寺から階段を下る途中に寛政9年(1797)の徳右衛門標石があり平等寺迄は2里と記してます。又、近くには麓迄50丁と記した道標もあります。旧道はおそらくこの道標から右に行くと思われ今は使われていない道筋で少し下るとロープウェイ駅からの道と合流します。そして南捨心迄は登りとなりいくつか丁石が残っています。尚、道標などは古い物なので文字が磨滅風化したものもあり読みずらいところもあり間違っているかも知れまん。
丁と記した地蔵が有り宝暦9年(1759)の年号記されてる。この先のいくつかの丁石はこの時代の物かも知れません。このような地蔵型の丁石のことを丁切地蔵と言っている道中日記もあります。
4丁石から急な道を登ると南舎心でこれより少し下ると右に丁石があるが是は10数年前には確か無かったと思います。尚この丁石は中山からの道筋に在る丁石と同じ様式(自然石型)で少し移動していると思われます。この道筋の丁石などは機会をみて書きたいと思います。
分岐の所には中務茂兵衛の道標が在ります。いわやへは左に行く。
すぐ先に大正15年の道標が在りこれから左にゆるく下るのがいわや道です。
この先丁石は一部台石だけの物もありますが7丁石から残っています。
10丁石は台石のみ残っています
次に元文2年(1737)の道標が在ります
この道標は右側山の上をふだらく山と云い観音堂跡の石垣等が残っています。この
ふだらく山への分岐を表していますが道筋はわかりませんでした。尚この道標と同じタイプで同じ願主の道標が中山へ向かう道筋にも在ります。
道はおおむねゆっくりと下って行きます。
25丁石から少し行くと道標
ここは平等寺へ直接向かう少し登りの道と下っていくいわや道の分岐となっています
他に地蔵型の道標、2基の26丁石が在ります。
分岐を左に進むのがいわや道ですが道は途中消滅して麓に降りることは出来ません。
道が消滅している所迄下ると幾つかの丁石が残っています。
ここから先は急な下りで少し道は荒れています。
30丁石は台石のみで次に31丁石
32丁石は見当たらなかった。そして上部が欠けた33丁石20年ほど前に行った時は丁石の上部もあったように記憶してます。
徳島県歴史の道調査報告第五集「遍路道」に写真と碑文が載っています。
この先は石灰石の採掘が行われて道は消滅しています。
次に丁石がみられるのは砕石場の作業道にある40丁石であるが先の26丁石の分岐から直接、平等寺へ向かう道には39丁石だけが在るのだがこの道筋にはこの丁石のみなので
これはいわや道から移設されたのではないでしょうか。
消滅したいわや道の先には砕石場の作業道路沿いに40丁石
次に41丁は見当たらず42丁石が在る。
作業道路をそのまま進むと右側岩の間に大日如来の碑が有りその台石に太龍寺まで48丁と記されています。尚、この道標は昭和初期、四国中に多くの標石を残している益田喜一さんによるものです。
付近の作業道路の下側、山中に旧道が一部残り2基の丁石が確認出来ました。
この丁石は右側に二十?と刻字したものを消された様な感じです。
古い記録では48丁石も在ったようですが確認出来ませんでした。
採石場の道路から県道に出たと所にいわや付近にあったと思われる35丁石が移設されてます。この先、阿瀬比までには旧道と思われる石造物は確認出来ませんでした。
車道と違う旧道があるのかもしれない。
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MAP1(カシミール3Dより作成)
MAP2