23番薬王寺から24番東寺間(甲ノ浦迄)の道標・丁石
案内記では23番薬王寺から東寺迄21里の道法である。
薬王寺からは少し山手に入り寒葉坂を越えて牟岐へそれからは海沿いの八坂八浜を通り
浅川へそれより阿波土佐の国境を越えて甲ノ浦へ、それから東寺迄は海沿いの道を進み室戸岬へ向かう昔は途中に飛石、はね石と呼ばれる海岸沿いの難所だったようです。今は国道55号線で太平洋を望みながら歩いて最後に山道を登ると24番東寺(最御崎寺)
薬王寺門前付近には4基の道標が有り、寺への入口右に中務茂兵衛の道標
「東寺へ21里」
奥之院へは日和佐より北へ向かい土佐街道の丹前坂を越えて行っていたようです。
照蓮の道標等
この少し先で旧道は消滅していてJRが国道55号線下を通る付近から旧道が残り
国道下を通ると右に地蔵が有その横に真念標石
この先は一部国道55号線を通りそして左へ国道下の旧道へ入りJR横川トンネル手前で山道に入り登って行くと横子峠で徳右衛門標石が在る。下部は折損か土に埋まっていて判らないが恐らく「東寺迄20里」
峠を下るとJR山河内駅北側に出、此処に2基の道標
付近は23番奥ノ院経由の道が合流する所です。
打越寺を過ぎると国道を通ったり旧道に入ったりしながら寒葉坂峠に至ります。峠からは国道から別れ右へ旧道を下り400m程でJRを越えてゆっくりと下って行くが途中に旧道を示す石造物は見当たらなかった。辺川の川又で国道と合流するがすぐに右の旧道に入るのであるが付近に道標が2基
辺川の集落中程に道標 「牟岐へ25丁」
小松大師を通り再び国道を歩き牟岐手前までは殆ど国道を進む。
途中の旧道の牟岐川を渡る所に昭和時代の道標
資料では牟岐町付近には、いくつかの道標が有ったようだが見当たらなかった
今は無くなった民族資料館内にも道標が在った様だが不明
牟岐より浅川までは八坂八浜と呼ばれる海岸近くを通る遍路道です。
一つ目の坂は大坂(逢坂)で牟岐の市街を過ぎ瀬戸川を渡り車道を少し登ると案内板があり大坂峠越えの山道に入るこの大坂峠の下り道には享和元年(1801)の道標がり「是より90丁」とだけ刻んであるがこれは何処を示しているのか距離からするとこの先では四国偏礼名所図会に出てくる海陽町四方原にある弘法寺か?
大坂を下ると内妻で海岸に出る次の坂も旧道の山道(松坂)を歩くこれを下ると古江で次の坂は、しだ坂(福良坂)これは旧道の道筋は不明で国道等で消滅している
次の浜は、福良で四番目の坂は、福良坂(念仏坂)で福良トンネル手前で右に山道の旧道に入る。坂を下った鯖瀬には鯖大師があり本坊横の道標には「東寺へ16里10丁」
JRを越えて国道に合流する手前には鯖大師を示す道標
この先は八坂八浜は国道、又は旧国道を通る
大砂海岸の入口には徳右衛門標石 「東寺迄16里」
浅川港の旧道を通り国道に合流する所に2基の道標
しばらく国道を通り八坂八浜最後の借戸坂を下ると
道指南でいうめんきょ村(海陽町四方原、大里)に至るこの先、海部川は昔は歩いて渡っていたが現在は旧道を進むには国道の新海部川橋を渡ってから右へ高園で再び旧道に入りそれより山越え(馬路越、那佐坂)で那佐に下る。尚、馬路越の古い道は現在より少し西あった様だが確認していません。那佐からは国道55号線を進むが途中、海岸側に通行は困難であるが古道が一部残っている。そして宍喰へ、国道右側の町並を通り宍喰川を越えて古目には番所跡がありそのすぐ先に標識が有、左へ 山道に入る。峠には折れて倒れている道標。これは距離からすると佐喜浜の八幡宮を示しているのだろうか?
峠は阿波、土佐の国境で道を下ると甲浦港に出る。甲浦港には2001年迄は大阪より船があり自転車でも来れたのですが。
甲ノ浦では道から少し離れた甲浦中学校横に明治時代の道標が2基在る。これは
四国内にいくつか見られる京都独鈷組の道標です。
白浜の通りには地蔵の台座として利用され横向きになっている道標
MAP24-01(カシミール3Dにて作成)
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