36番清龍寺から37番五社迄の道標・丁石
「四国偏礼道指南」を要約すると
是より仁井田五社迄十三里
井の尻迄戻り船で横浪迄行くのが良い。景色がよく八坂八浜が見える。
歩いて行く場合は宇佐村の西へ出る。宇佐坂(灰方坂)、灰方村、高祖村、塩間村、塩間坂、出見村には花山院ゆかりの場所で千光蜜寺に廟の碑が有。出見坂(いづみさか)立目坂とも云う。立目村、赤熊坂は今は通らず浜辺の道を行く。させぶ坂、通らない。摺木村、立石坂、通らない。どうめき坂、横浪村、是迄を八坂八浜
奥浦村、次に佛坂、神田(こうた)村、土崎村、鳥越坂、今在家村、大師堂、須崎川、角谷坂、安和村、焼坂、右に水場が有。道の左に久礼村があり善根宿が有。添蚯蚓坂(そえみみず)、床鍋村、影野村、かい坂村、六反地村、神有村、河井村、道標が有。
次に少しの山を越えうしろ川、引船が有。少しして川を渡り五社へ参詣するが水量が多い時は手前の山に札を納める。別當岩本寺は窪川町に有。
明治末の案内記では抜粋すると
次へ十四里十八丁(旧二里)、福島まで打戻り巡行船が楽なり福島より中ノ内まで海上約四里、ここより一里八丁の間郡道を行けば須崎の渡船場となる。船を上がれば直ぐに左へ一丁行くと原町、十八丁行くと高野寺の出張所となる。旧道を八坂八濱に」行くとすれば七丁の宇佐坂を登り灰方に出て深浦、志和井、出見と過ぎ、立見坂の麓に花山院の旧蹟、其の左脇を七丁登ると立見峠、一里行くと横浪、一里行くと佛の峠四丁下ると霊験新なる不動尊を安置すここからだらだら下り大間橋を渡り山の裾を右へ回り小坂を越へると須崎町 番外 高野山 高野寺出張所
ここから三十七番へ七里三十三丁、山を下り右へ二丁行き、左へ三丁で新庄川を渡り、七丁行き角屋坂を二丁上り、左へ県道を行くと安和、ここから十六丁行き左へ旧道に入り焼坂を八丁上ると峠に掛茶屋あり、この小屋より十間行き、左へ旧道に上り二十三丁下り新道に出て左へ二十四丁行くと久礼橋、久礼村を過ぎ二十八丁行くと中坂とい云ふここで右へ行くと新道なれど大々の迂回、立石を左へ下り二十二丁行くと大坂にかかる登りが九丁は極々嶮坂で登り詰めると名の子峠で右手に海月庵あり、ここからは新道で三十七番へ三里七丁、床鍋橋際に福壽屋良之助が組合、次へ一里六丁行くと下呉地、六反地、柿木山を過ぎ仁井田町に入る、平串を経て小坂上り呼坂を左へ旧道を下り吉見川橋を越へ左へ行くと宿屋もあり。三十七番 藤井山 岩本寺
(五社(高岡神社)には行かず岩本寺へと案内している)
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来た道を戻り37番五社への標石(文化11年 1814年)五社迄十三里
宇佐迄戻り灰方坂(宇佐坂)へ方面を示す道標 八坂道と刻字
以前は下部が埋まっていて下部の刻字わからなかったが今は掘り出されて少し移動している。江戸八丁堀の飯島という人が四国を33度巡った記念に建てた道標
峠から先は少し荒れているようだが通ることは出来る様だ。
横浪迄は殆ど旧道は通ることが出来ず海岸沿いの県道23号線を進みむこととなる
旧道沿いの高祖坂に向かう道に
旧道を少し進むと
これより先、峠は土地の人に聞くと通れないだろうとの事で通らず海岸沿いの道を通って再び旧道に入り出見へ行く。花山神社近くには
横浪の先に道標が在る(歴史の道調査報告書)ようだが見当たらなかった
次に佛坂の新道と旧道の分岐に比較的新しい道標
坂を下った先の神田には徳右衛門標石 「五社まで八里」
須崎の大善寺の入口には徳右衛門標石と思われる道標
明治の年号が有、追刻されたのか又は再建された物なのか
須崎の出口付近の道標
地蔵さんは新しく昭和の物
国道の新庄川橋の横に移設された上部欠損の舟形地蔵の道標
角谷坂の登り口手前にある道標
一部埋まっている為はっきりとしないが形状と年号、願主が聖心とあることから照蓮と何らかの関係が有る道標と思われる(照蓮の道標の幾つかに聖心の名前が出てくる)
この先の角谷坂は一部通れることが出来るが新旧国道を歩き安和に向かう
安和の街角に手差しの道標
安和では遍路道から離れ国道56号線から阿波海岸へと向かう道に入ると100m弱で入口が分かりにくいが右手の山へ少し登ると祠内に焼坂より持ってこられた道標が置かれている
先の37-13の手差しの道標から300m程の所には徳右衛門標石 「五社迄六里」
横には小さな手差しの道標
この先は焼坂となり一部旧道を通り峠迄登る
峠から先は南へ向かう旧遍路道は廃道となっており明治末期に出来た道を下って行き久礼に向かう
昭和初期の地形図(焼坂峠)
久礼の今は通ることのない旧遍路道沿いの道標
遍路道から少し外れて久礼の港には元は久礼川に差し掛かった所に在ったと思われる
徳右衛門の標石と他にもう一つ道標が移設されている
五社でなく岩本寺とあり改刻されているのかも
添蚯蚓坂の登り口にある道標 坂を登った所にかつて存在した海月庵を示している
坂を登って行くと文化5年になくなったなみという人の墓碑
これにはこの先の色んな場所を示している
五社迄は四里 伊予との国境迄は四十一里
唯一残る丁石、尚7丁石もあったが今は役場に保管されている模様
添蚯蚓坂の旧道はよく残っていて高速道を越える所には迂回路がある
明治時代になると添蚯蚓坂を通らず案内記にあるように七子峠を越える道が利用された
この道沿いには4基の道標が記録されているが2基のみを確認
1つは久礼の町の出口に手差し道標
道標のすぐ横を登った所には明治期に立てられた地震碑が有ります
添蚯蚓坂の少し開けた海月庵跡にある道標
この先、坂を下った先の床鍋の田圃の中の旧道近くに石造物が集められていてバラバラになっている徳右衛門標石 「五社迄三里」と手差しの道標がある
現在は通らない六反地駅近くJRの西側の旧道沿いに
田んぼの中を通る遍路道に
平串から国道から別れ右へ遍路道を進むと右側に
すぐ先にも道標
今は通れないが昔はここより少し南で川を渡って根々崎へ
四万十川沿いにしばらく歩き右に四万十川を渡ると37番五社(高岡神社)
現在は岩本寺が37番札所となっている
五社(四国偏礼名所図会)
MAP37-1(カシミール3Dにて作成)赤色=遍路道 点線=旧道
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