23番薬王寺から24番東寺間の道標・丁石2
甲浦白浜から生見迄の山越のルートはいくつかあったようですがどのルートも通ることが出来ないようです。なので国道55号線、旧国道を通り生見へそしていくみ坂を越へて相間へそしてあいま坂(私は歩いていませんが旧道を通ることは可能なようです)を越える。
野根に入り国道と別れ右へ入り200m程で東洋大師と呼ばれる明徳寺がありその前に
野根の町中には明治31年に西側山沿いに開設されたと思われる写し霊場の新四国八十八ヶ所を示す道標
国道の西側にある野根川の川原に出る道の途中には徳右衛門標石 「東寺迄8里」
この標石と思われることについて書かれた案内記が有り一文を載せると
明治末から大正にかけて出版された此村欽英堂発行の「四国遍路同行二人」に
野根の昼寝とて、ここより水尻まで二里の間は宿も人家もなく、ただ淋しくも、右は山、左は荒き土佐湾で磯打つ波音高く、もまれて下がるごろごろと転がる石のものすごく慰むたねのあらばこそ徒然歩むその中に迎える如く、一里一里に立つ石に近寄る度に足軽くまた見る石を待ち遠く疲れ足を軽々と運べば見ゆる小水谷橋の辺に立つ石は東寺迄八里ぞと・・・
明治のころ八里石はこの先海岸沿いの御水橋付近に在った様だが江戸時代は伏越番所の先に在った様です。
次に野根川橋を渡った先の小堂内に舟形地蔵の道標
願主は木食佛海とありこの先にも同じ佛海の道標が東寺までに3基、その他には足摺山への道、65番仙龍寺への道にも残っています。
木食佛海とは平成13年愛媛県生涯学習センター発行の「四国遍路のあゆみ」に詳しく書掲載されている。その一文です
木食佛海は修行の旅に出て26歳で木食(五穀や塩を絶つ)行に入り、39歳には日本国中廻国修行を成就している。その間に三千体の地蔵尊像を彫り残した。40歳のときに故郷猿川村(北条市猿川)に帰り、遍照庵(木食庵)の復興、風早西国三十三所観音霊場の開設などを成し遂げた後、四国遍路に専念し、21度の巡拝を成就している。その間に遍路のために地蔵道標や土佐佐喜浜入木に接待庵(現仏海庵)を建て、明和6年(1769年)、自ら造立した宝筐印塔の下に、即身成仏を期して土中入定を果たした人である。享年60歳であった。
昔は野根川を渡った先で少しの山越えをして海岸に出ていた。途中には番所がありその跡もあるようです。文化九年再板の宝つかみ取に書かれた野根から番所付近の絵図
伏越の番所から下り海岸へ、昔は「飛石、はね石、ゴロゴロ石」と呼ばれ海岸沿いの岩石を伝いながら歩き大変だったようです。
番所よりおさき村(尾崎)迄三里の間、人家無、ただ法界庵のミ也。
今は国道55号線を楽に歩ける。
海岸の絵図
伏越から3km程行き国道沿いの擁壁の中に佛海の道標 「佐喜浜ヘ3リ」
次に3km程進むと国道脇に徳右衛門標石 下部が欠損か土に埋まている為、不明だが東寺迄6里の標石と思われる。
それより1km先、左側に水尻海岸と書かれた標識があり茂みを入った所に佛海の道標
次に入木では右へ市道に入り先の道標の願主である仏海が遍路の為に起こした庵があり、その前に徳右衛門標石 「東寺迄5里」
そして少し先に資料では手差しの道標が有るようだが確認出来なかった。
佐喜浜に入る手前には舟形の道標
佐喜浜の集落出口の国道沿いに徳右衛門標石 「東寺迄四里」
少し前までは甲浦にあったようですが元位置に近いと思われる現位置に置かれている
都呂の国道沿い墓地の前の小祠内に佛海の道標
国道から左へ鹿岡鼻の奇岩の有る海沿いの道に付近の山沿いの旧道に在ったとされる下部欠損の徳右衛門標石 「東寺迄3里」と思われる
暫くして右へ割と広い旧道(日置坂)に入りへ暫く歩きましたがダンチクが生い茂り通行が難しく引き返しました。
旧道を反対側から登ると中務茂兵衛の道標が倒れて置かれています
三津漁港近くに付近より移設された道標
暫くは道標は見当たらず東寺への登り口に大正5年の道標
寺の少し手前の坂途中に下部が欠損した倒れた道標
坂を登り切った所、仁王門手前には付近に在った舟形の丁石が並んで置かれています
安永7年の道中日記には東寺迄の登り道に丁石地蔵が有ると書かれています。
仁王門横には違うタイプの丁石が2基
24番東寺(最御崎寺)
MAP24-08~16(カシミール3Dにて作成)
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